ソラミミ堂

淡海宇宙誌 V いるすべ

このエントリーをはてなブックマークに追加 2010年9月7日更新

 「いるすべ」にとりつかれています。
 「いるすべ」と聞いたら、何を思い浮かべるでしょう。どこかそのあたりにいる妖怪か何かの名前と思うでしょうか。
 「居る術」と書きます。
 書いてみると、あ、そうかと思います。でも、それにしても「居る術」とは何だろう。それで、散歩しながら「いるすべ、いるすべ」と唱えてみます。
 それは、いったいどんな「術」なのでしょう。
 「居る術」は、“the art of being”という外国言葉の訳語として、人から聞いて知りました。
 “the art of being”。
 “art”は普通に「技術」だと受け取ってもいいのだけれど、「居る術」の「術」は、簡単に「技術」と見ては足りないようで、やっぱりそれは「芸術」の「術」なのだろうと思います。
 「居る」ということは、それ自体芸術的な出来事なのだ。一人ひとり、誰もがたがいに真似のできない仕方で確かそこに「居る」。それは一瞬一瞬の、絶え間ない創造的な営みだ。
 「居る」だけだったら誰でもできる。「居る」だけなんて、時間や場所やエネルギーの浪費じゃないか。そう考えることもできますが、そこから生じるひずみに僕らは挑みたい。
 たとえば、泣き止まない赤ん坊、病みこもる人、忘れ続けるお婆さん。
 いま「居る」ことの瀬戸際に立って、だからこそ、その無垢な、その生々しい、そのギリギリの「居る術」で、彼らはようようそこに「居る」。
 その「居る術」を突きつけられたら、僕らはたちまち”なすすべ
ないよ、と言葉遊びに傾きかけた路地の辻で、肩ひじ張るな、と「居る術」の見本のような、お地蔵さんに笑われました。

スポンサーリンク
関連キーワード