淡海宇宙誌 IV 淡海宇宙の からだとこころとたましいと
淡海宇宙の基本構造は湖から里へ、里から山へと広がる同心円です。淡海の文化の「からだ」と「こころ」と「たましい」は、湖、里、山のそれぞれの場で育てられたと思います。
例えば湖岸のある村で、琵琶湖の水を使ったあともその排水は決してそのまま流さない。
「われらの村の排水は、琵琶湖ではなく、山へ向かって流れたのだ」と、水辺の人が胸張るように、人々は、汚れた水をそのままで琵琶湖に流すことはせず、村の背後の内湖へ流し、そこで汚れを沈殿させて、上澄みだけが琵琶湖へ注ぐ。内湖の泥は畑の肥料に使われた。
人が「住む」、けれどもちゃんと水は「澄む」。そんな仕組みができていた。
人々の暮らしを介して、自然のめぐみがきちんとめぐる。循環がある。そうした「からだ」を、淡海の文化は持っていた。
里を歩けば、広い田地と数千の村。そこにあるのは「水社会」です。
限られた水、その分配をめぐっては、争いもあり団結もある。緻密なルールと、練り上げられた近所づきあい。感謝も恨みも百年尺度の帳尻合わせの「お互い様」で「おかげ様」。そう簡単には折れない「こころ」が出来上がる。
山に入れば森がある。淡海の森には「守り」がある。
そこにある木は自分の木。けれどもその木は自分の先祖が植えたもの。それを自分は先祖からただ預かっただけのもの。
いま植える木は自分の木。けれどもその木は自分の子孫に残すもの。それを自分は子孫からただ預かっているだけのもの。
すべてのものは、過去未来から、自然から、ほんの一とき預かっているだけのもの。人間は、過去から未来へつながるいのちの、その一ときの「守り」をするもの。悠久の時間とつながる「たましい」がそこにあります。