ソラミミ堂

淡海宇宙誌 III みずうみの皮をめくる

このエントリーをはてなブックマークに追加 2010年7月5日更新

 梅雨の琵琶湖は、そこに「ある」というより、そこに「いる」と言った方がただしいと僕は思います。
 梅雨のころ、琵琶湖のほとりを歩くと、かたわらに、いきものの気配がする。
 それは魚とか鳥とかではなくて、息をひそめて、みずうみが、「いる」。
 吹いてくる風、その匂いも、みずうみという大きないきものの吐く息か、その体臭のように思える。親しくもある反面、油断しているとのみこまれそうなうす気味悪さを感じることもあります。
 ところで、みずうみや水を、もっとはっきりといきもののようにとらえて言うとても面白いことばがあって、それは「水の皮をめくる」ということばです。
 昔は、といっても、そんなに大昔ではなく、僕らの祖父母世代の若い頃は、誰もがみな琵琶湖の水や琵琶湖にそそぐ川の水を、普通にじかに飲んでいた。そのように自然の水、まさになまみずをそこから汲んでじかに飲むときの作法が「水の皮めくり」です。
 みずうみの水、川の水を、ヤカンや桶やてのひらで汲む、その汲む前に、ヤカンの尻や桶の底や手の甲で水の面をカバ、カバ、カバと撫で払う。ようするに、水面のほこりを払っているのです。その所作をたとえて「皮めくり」とか「皮むき」だとか言ったわけです。
 なんだことばあそびか確かに面白いねとかたづけることもできるのでしょうが、そこに「いる」みずうみや川の「皮をむいて」飲むというのは、みずうみや川それ自体に生きるいのちと生きるからだを見て向き合っているということで、それは大地に水道管をチクリと刺してチューチュー水を吸っている蚊のような僕らが失くしつつある、自然への身がまえかただと思います。

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