邂逅するソラミミ堂49 おそれの成分
古い家なので枕辺のガラス戸のすきまから外の空気がしのび込んでくる。寝床についたままひとつ深呼吸する。少ししめり気のあるその空気にほんのわずか、金木犀のかおりが調合されている。
異常ナシ。
目覚めの床で花のかおりや湖のにおいをきくということが毎朝の安否確認のようになってしまった。
罹患すると嗅覚や味覚が損なわれるという感染症へのおそれがこんなふうに自分の身についているとは、おもいがけないことだった。
花の香がする、湖がにおう。そのあたりまえのこと、日常というものをあらためてありがたく思う。
そう言うと聞こえはいいようだけれど、花の香が日常であるのと同じくらいに、病もまた私たちの日常であるはずだ。老いも死も。
問われているのはそれまでの日常というものはほんとうにあたりまえだったのか、ということだとおもう。
あきらかになったのは、それまでの日常のなかで私たちが何を見ていたかということではなくて、その日常のなかで私たちが何に見て見ぬふりをしていたか、あるいは何に目をふさがれていたかということなのではないかとおもう。
すこやかでありたいというのは、生物にとってあたりまえのすこやかなねがいである。
けれど病や死というあたりまえを注意ぶかく摘出し、それから目をそむけてきた日常のはてに、いま、すこやかであるということは、一人ひとりのねがいであるというよりは、一人ひとりに課せられたつとめのようになってしまった。
このごろの私たちの病へのおそれが何でできているかといえば、病そのものへのすこやかなおそれというよりは、うっかり病になってしまって、すこやかであることへのつとめを果たせぬ者とみなされののしられ追い立てられること、つまり世間へのおびえが主成分である。
理想は病がない日常である。そこにはまだ手が届かない。けれど、いたわりとねぎらいを皆で世間に処方して、安心して病むことができる日常をはぐくむことならできるとおもう。