邂逅するソラミミ堂48 詩のくすり
病気を治すというよりも、からだの調子をととのえるために、日常的にのむ。そういうくすりがある。
それとおなじように、こころの調子をととのえるために日常的に読む。そいういう詩がある。
わたしのまちがいだった
わたしの まちがいだった
こうして 草にすわれば それがわかる
たとえば、僕にとってはこの詩がそうだ。
ここまで痛切な悔悟をともなうものではないが、暮らしのなかで、間違ったり失敗してしまったとき、あるいは逆に、自分が自分の正しさで誰かや何かを責めそうになっていると感じたときに、僕はこの詩を思いだし「草にすわる、草にすわる」と呪文のようにとなえてこころをととのえる。
そんなふうにこの詩は、僕にとってはこころの常備薬、あるいは肌身はなさぬお守りのような効き目をもっているのだが、このごろは、この詩はひとり僕という人間だけでなく、僕らが生きる社会のためにも効き目があるのではないかと思っている。それも、つぎの詩と併用すると効き目が倍加するようだ。
…そんなにも深く自分の間違いが
腑に落ちたことが私にあったか
草にすわれないから
まわりはコンクリートしかないから
私は自分の間違いを知ることができない
たったひとつでも間違いに気づいたら
すべてがいちどきに瓦解しかねない
椅子に座って私はぼんやりそう思う
私の間違いじゃないあなたの間違いだ
あなたの間違いじゃないみんなの間違いだ
みんなが間違っていれば誰も気づかない…
ここ半年あまり、このふたつの詩のくすりを服用しながら、いろいろなことを考えた。
このくすりは当分手放せそうにないけれど「まあちょっと、きみら、いっぺんすわれ」と地球が言っているこのときに、草にすわれる環境にあるこのまちに住んでいて僕らは本当によかったな、と思う。