邂逅するソラミミ堂46 ときのきれめ
ときは晩春、雨に百穀生じ、また葭始めて生ずるころ――。
この小文のために机に向かっている今日という日を、昔ながらの二十四節気・七十二候によって分類するとそうなる。
地面のうえに所番地をふり分けることで家・人の在り処が定まるからあなたからの手紙も無事に届く。流れながれ、巡りめぐる時間のうえに春夏秋冬朝昼晩、何年何月何日の何時何分何秒と切れ目をいれて名前を振ることで今日や明日の座標が決まり暮らしは漂流せずにすむ。
切れ目にしたがい時間をはかるための時計は人間が自分たちの生活の便利のためにつくったものだけれど、みずからつくったものによって自分たちがコントロールされるようになるのが人間だ。からだのほうではまだおなかは減らないのにあたまのほうが六時が来たからというので毎日ご飯を食べているうちにいつのまにか六時が来ると不思議におなかが減るようになったりするから面白い。
ツバメが来るとかミミズが顔を出すとか、もともとは、自然が便りを寄こしてくるのにあわせてつくった暦だったが、冬だというのに雪がふらないとか春だというのに雪がふるとかいって、いつのまにやらひっくり返る。「郵便受けをつくったんだから手紙を寄こして下さいな」。ごっこ遊びの子供のようだ。
けれども自然はものわかりのいい大人のようには人間の都合にあわせてはくれない…はずであった。これまでは。
「冥王代」「太古代」「原生代」ときて、いまは「顕生代」。その「顕生代」の中の「新生代第四紀完新世メーガーラヤン期」のはずれというのが地質時代上の人類の現在地だ。ところがこれを改訂し、「完新世」に続く新たな時代区分を加えるべきだという議論が進められている。その名を「人新世」にしようという。
現在形成されつつある地層の中に人類のしわざのあとが永続的に残ると考えられるからである。人類が「繁栄ごっこ」に自然を無理やり引きずり込んで、気候どころか地球ぜんぶに影響を及ぼす者になってしまったからである。
「人新世」のはじまり、つまり「完新世」と「人新世」の間の切れ目をどこに入れるかについて、いま人類は議論している。
おわりの切れ目をいつ、誰が入れるかはまだわからない。