邂逅するソラミミ堂42 M君とぼく
アとイのあいだの
百の声で
はなしたいな
草と 虫と
ドとレのあいだの
千の音で
うたいたいな
花と 鳥と
そんなふうにいろいろな生きものと話せたら。そこで思い描いてみる…。ありゃ!? これはなかなか大変だ。
M君 欲シイモノヲ「手ニイレル」トカ大事ナモノヲ「手バナス」トカ云フデセウ。アレガサッパリワカランノデス。
ぼく え?
M君 ダッテモトモトボクラニハ手モ足モナイノデスカラ。
「M君」は我が家の庭に棲むミミズである。
M君 人間ハ「夢ヲ持テ」トカ「心ヲ掴メ」トカ云フデセウ。ネエ。ナニカヲ「持ツ」ツテドンナカンジ?
ぼく え? あ、えーっと…。
形の有無にかかわらず、何かを所持し誰かが所有することを、僕らはふつうに「持つ」とか「持っている」と言う。何かを獲得することを「掴む」とか言う。
つまり「手偏」の言葉で比喩するけれど、それは僕らが二足歩行によって両手を使えるカラダになった種であることを暗黙の前提にしているわけだ。「所有すること」。そのよろこびもかなしみも、もとをただせば僕ら自身のカラダのつくりにはじまるらしい。
ともかく僕らが僕らのカラダに基づいてふつうにしている前提は、ほかの生きもの仲間の多くには通用しない。
同様に、僕らとはカラダのつくりもなりたちもちがう生きものがふつうにしている前提を僕らはそのまま採用できない。
おおむかしから「相手の身になる」のが大事といわれてきたのはそのとおりで、とくに相手がミミズや草木虫魚たちである場合、文字どおりそうすることが肝心だ。
ぼく お話するのも、骨が折れるね。
M君 アノ、ボクラ、骨トイウフノモ無イデセウ。
ぼく あっはっは。こりゃ手も足も出ませんな。
M君 ア、ソノカンカクナラワカルカモ!