邂逅するソラミミ堂41 未完のサルの進化論
一説によると、遺伝子的には人間は、九割八分サルである。
これが本当だとしたら、僕たちは、むしろ未完のサルである。
ゴリラやチンパンジーに少しばかり毛の生えた…いや毛の抜けた程度でありながら、僕らは地上にわがもの顔でのさばって、サル仲間には面目ない。
というわけで、困ったときには「こんなとき、サルたちだったらどうするか」と、先輩たちのやりように手本をさがす。
もちろん、猿まねだけでは何ともならないこともある。ヒト引くサルの残り二分。その二分相当、すなわち人間らしさというのが結局、なやみの種なので。
たとえば子育て。なかでも僕たちオスの子育ては、サル的にみると歴史の浅い行動で、(あえて子殺しもいとわないというような)先輩たちの前例があてにならない場面も多い。パートナーである母親や、当の子どもに励まされ、しばしば呆れられながら、それでもここが進化の見せ場と試行錯誤の日々である。
生きものはすべて終わりなき進化の途上にあるのだから、実際には「全きサル」などいないのだ。であっても彼ら、動物たちのやりようは、迷いなく、なんとすっきりしていることか…。
じつは、子育て・学びをめぐるヒトならではの問いに一家で向き合っている。
小学五年の娘が登校を渋りがちになり、ある朝、「学校」がこわい、と打ち明けた。
友だちとは楽しい、先生は優しい、勉強もそこそこ。でも…。
学びの大事さ。ほかにはない経験。それは分かる。でもなぜ一斉に同じに、でなければならないの?
一人ずつ違っていいってみんな言うのに、違ったままでいることにどうしてみんなしんどそうなの、しんどいの?
僕らの社会のあちこちが、僕ら人間が編み出したいろいろな仕組みが、ミシミシと軋みの音を立てている。その音にいま、百万の子がじっと耳をすまし十万の子が立ちすくんでいる。
変異と適応そして淘汰が進化のエンジンなのだとしたら、今日の事態は、社会に適応できない子らが淘汰されつつあるのではなく、むしろさらなる進化にむけて日々育ち日々変わりゆく一人ひとりの子らの自然に適応できない社会や仕組みが淘汰されようとしているのではないかと思う。