ソラミミ堂

邂逅するソラミミ堂38「人鍋」の味

このエントリーをはてなブックマークに追加 2019年1月23日更新

イラスト 上田三佳

 発祥の地では「クリスマス・ケトル」と呼ばれている。その「鍋」はこの時期、街頭の風物詩になっている。
 歳末の人混みへ繰り出す、ということを最近はしていないのでわからないのだけれど、あの交差点に面した、いつもの百貨店のあたりに、今でも変わらずに出現しているのでしょうか、「社会鍋」※1 は。
 季語にもなっていて、歳時記には「雑踏の背に呼びかけて社会鍋」とか「変りたる街に変らず社会鍋」というような句が挙がっている※2 が、うきうきした気分のなかに、ひと匙のうしろめたさが溶かし込まれたような、この時期特有の世相を映した作品が多い。
  「クリスマス・ケトル」を「社会鍋」と言い換えた人の感覚はなかなかのものだと思う。
 もともと「社会」と「鍋」とは相性が良いと思っていた。
 社会とは何だろう、と考えると、それは確かにそういうものがあるようだけれど、目には見えず、「これですよ」と取り出してみることもできない。一人ひとりの人が集まってそれはできていて、また、一人ひとりのなかにも、その影響は沁みとおっている。人と社会との間には、そんな関係がある。
 これは喩えるなら「鍋」における「具材」と「出汁・スープ」のようなものではないか、と考えたわけである。人が「具材」で社会は「スープ」。
 一人ひとりの人は社会というスープの中に生れ落ちて、だんだん社会の味に染まっていくのだけれど、人は人でまた、一人ひとりが、それぞれ固有の「持ち味」をスープの方へ吐き出している。なかなか煮えない根菜類から、うっかりすると煮崩れしたり、とろけて行方不明になるのまで、具材の性質もさまざまである。なお、この場合「器としてのナベ」はそれぞれの社会が成り立つ「風土」である、という見立てだ。
 このようにして、土地ごとにいろいろの、個性ある「鍋」が出来上がる。ちょっと怖いが、いわば「人鍋」。
 世知辛く冷めたのよりも、「鍋」はやっぱり、おいしく温かなほうがいい。にぎやかで、寛容で、僕らが知ってる「鍋」はもともとそういうものだ。


※1 【社会鍋】キリスト教の教派団体である救世軍歳末などに街頭で貧しい人たちのための募金を鍋に受ける活動。慈善鍋。
※2 「俳誌のサロン・歳時記」より引用

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