邂逅するソラミミ堂29 きずはつくる
「造」という字のとなりか上か、そのどちらかに居るときの「創」という字はすなわち「つくる」という意味である。
ところでこの字は「絆創膏」の三字の中に置かれると、すなわち「きず」という意味になる。
「つくる」は「きず」だと気がつくまでにうっかり今までかかってしまった。
大工でもある友人M君と話していたとき、彼がおもむろに「創」という字の部首「りっとう」は「刀」の意味で、「創る」というのはだから刀で部材を切り出し組み立てることだ、と言った。それで改めて「創」という字を眺めていたら、ああそういえばと気がついたのです。かつて習っていたはずだから、M君の提起のおかげで思い出したというべきか。
この面白い「創」について調べると、ある教会の説教で、こういうふうに説いていた。
曰く、神ははじめに光と闇を切り分けられた。つづいて神は水を天の上と下に、さらには陸と海とを分けられた…刃物をあてるようにして切り分けていかれた神のみわざがそもそも世界の創造であった。
刃物といえば、僕らのことばは、よく切れるナイフのようなものである。名付けることで、ことばは世界に切れ目を入れる。名付けることで僕らは世界で、百通りにも風をつかまえ、千通りにも雨を聞く。
やわらかな無垢な赤ん坊の心に、やがて喜怒哀楽の切れ目が入る。さらにその切り分けられた喜びにはまた喜びに、哀しみにはまた哀しみに、さらにこまかな切れ目が走り、きずつくほどに僕らは世間の機微を心得ていく。
「つくる」と「きず」の一致が生むのが彫刻だ。彫刻家たちにノミや刀で切り刻まれて、彫り削られて成る彫像は、文字どおり「満身創痍」なのである。
仮にそれが仏像や聖人・聖者の像ならば、僕らはひざまずいてその「きずもあらわな」姿を拝している。
いや、ひょっとして僕らは、仏や聖者の形になってあらわれた「きずそのもの」に祈りを捧げているのであろうか。
それは、しかしなんと美しいきずなのだろう。