邂逅するソラミミ堂27 明日はあふみ
よばれた気がしてさがしてみたら、いた、いた、ここに、道ばたに。
来たよ、ことしも。はるだよ。
と、かわいいこどもの学芸会がはじまるように、つくしが出できて、幕があく。
いちねんまえ。その幕あけを待たずして、友が病で亡くなった。
あの日もつくしによび止められて、そうだ、こいつを摘んで届けたら、どんな花よりも、きっとよろこぶ。あすにもいこう。
そのあすに、友のいのちは届かなかった。
それでことしから、つくしは僕には、忘れがたい友との記念、友への手向けの花になった(つくしの…つくしは、あれは花なのだろうか)。
このごろは、出会うにしても、わかれても、以前にくらべて、気もちは、少しずつ淡々としたものになってきたようだ。仮にわかれなら、それは生きわかれでも、死別でも。
悲しくないとか、つらくないとかいうのではない。先立った人、残された人双方の無念を想えば痛ましい。
ただ、悲しみは悲しみながら、一方で、わかれは出会いのはじまりで、生も死も、となり同士の地続きなのだ、といよいよ具体に知れてきた。わかれの先に、今会うのとは別の仕方で出会う明日があることが、このごろ確かに知れてきたのだ。
今日わかれ明日はあふみと思へども夜や更けぬらむ袖の露けき(紀利貞)
(今日きみと別れるといっても、京と近江の距離ならば、その気になれば明日にも会う身、会える身だ。そう思うのに、どうしてだろう、夜が更けたからかな、なんだか湿っぽくなるね││僕のこの袖がなにやら濡れているのは涙のせいではないからね)
いちねんまえに惜しみつつわかれた友が、今年、僕には、つくしになって会いに来た。
今日わかれても、明日は互いに、わかれた時とはそれぞれちがう「会う身」になってまた会える。僕もいつかはあなたとわかれ、今日とは別な「あふみ」になってまた会おう。