邂逅するソラミミ堂24 もう、また来るは来ない
現を抜かすのは難しい。
夢と現の追いかけっこであるわが人生は、いよいよ折り返し地点に差しかかった。
このまま現に抜き去られるか、夢は現を抜かせるか。そんなことを思う歳になった。
その洗礼というわけでもなかろうが、年改まってからこのかた、尊敬し敬愛する師友との死別が立て続けにあった。
そこへ肉親の死に追い打ちされた。大好きだった祖母が亡くなった。いつかは、と想定していたつもりだけれど、さすがにこたえた。
しかしこうなってみると、今度は俄然、お盆が楽しみなのであった。
また、新たな命との出会いも、一方にはあった。知友に子が生まれ、僕はおじというものに、初めてなったりした。
ゴールもスタートも、どちらも見えて、なるほどこれが中間地点からの眺めである。
Φ
お盆を過ぎて早々の三日間を四十人あまりの学生とともに、鈴鹿の山里で過ごした。
山村で地域に根差して生きる人びととそのくらし、文化と歴史、あるいは苦労や悩みにじかにふれて学ぶ、臨地学習の引率指導である。
指導といっても、実際は課題を与えて地域の中へ「放牧」するのである。学生たちは地域を歩き、そこに生きる人びとと出会って、そして自分で育って帰ってくる。その意味で、地域は教育の偉大な「まきば」である。
だから僕の出る幕は無いようなものだが、ただ、学生にいつも訓告していることはある。
出会った人びとと交わした「小さな約束」をこそ必ず果たそう、ということ。どんな夢のある壮大な提案をするよりもまず、それは大切なことであるということ。
「また来る」と君が言ったら、人びとは、それを信じて君を待っているということ。
今度の臨地学習でも、そんな話をしていたのであったが、途中でいたたまれなくなり、口ごもってしまった。
Φ
あの日に僕は「また来る」と言って病室を出たんだ。別のあの日は道端で握手しながら「また会おうな」と言ったんだ。
いくつものあの日の小さな約束を、僕よ、お前は果たさなかった。