邂逅するソラミミ堂22 不思議なジョーロ
はるか西方に天変地異を目の当たりにした折からの日曜日に、ある瞑想の会に参加した。おおきな窓からひろびろと美しい西の湖を臨む絶好の会場であった。
その日天候はめまぐるしく推移し、それに呼応するように湖面は、一日のうちにまこと劇的に表情を変えた。はげしくさんざめく心、ひたむきに同朋の無事を祈る心、そして翻って、いまここのこの身の無事をかみしめる心。それはまさに、その場に会した一同の心模様そのもののようだった。
その日の帰り際に、仲間との間で、「慈悲」はむずかしい、という会話になった。
曰く。「あらゆるものに慈悲の心で接しなさい」と師はおっしゃって、それが大事だとは分かるのだけれど、白状すると、意味の手前で「慈悲」という言葉の響き、あるいは字面になんとなく「持てる者から持たざる者」へというような、上から下へと「くだしめぐむ」という匂いを感じてなじめないのだ。と。
それではもったいないので、「くだしめぐむ」の匂わない、われらに身近な言葉はないか、と話しあってはみたけれど、凡人同士の立ち話程度ですぐに妙案が出るわけもなくその場はそれで解散となった。
そんなことがあったせいか、今朝庭の草花に水をやりながら、今さら不思議に思ったのである。
そういえば、ここにこの草花を植えるまでの間、この草花に向ける僕の愛情は、一体どこにあったのだろう? そんな気持ちを、自分のどこに、今まで仕舞っていたのだろう?
なるほどな。愛情を、持っているとかいないとか、ジョーロから草花に水をやるように、誰かの(心の)うつわに満ちているものを別の誰かに注ぐみたいに考えるから間違うのだな。
だってそうなら、僕の小さいうつわでは、愛情は、たちまち底をつくだろう。
草花は見る朝ごとに可愛いし、手を振るたびに友はいよいよなつかしく、夕べ夕べに妻子はますます愛おしい。
でもそれは、愛情を僕からみんなに注ぐからではないのだな。注ぐ注ぐと言いながら、いつだって、満たされるのは僕なのだ。これは不思議なジョーロだな。