邂逅するソラミミ堂19 余生を「贈る」
先日子育てについて語り合う会に参加した。
子育てにそんなに熱心だったっけ?
白状すると、わが子が産まれたその瞬間から、僕の育児は、半分「余生」の仕事なのです。
わが子が産まれて、はじめて腕に抱いたとき、名状しがたい感慨がこみあげてきた。自分も人の親になる。さあこれからだ。
「始まりだ」。
ところが。期待と不安と責任感に胸がふくらむそのさなか、もうひとつの、思いがけない内なる声を聴いたのだ。
「終わったな」
って。
その声は僕の頭や心とは別の場所から響いてきたので、こいつはきっと遺伝子がらみの事件じゃないかと考えました。
僕に先立つ代々の先祖のからだをつぎつぎ乗り継ぎ生き延びてきたあの遺伝子が、古いからだを飛び出して、新しい次のからだへ乗り換える。その乗り換えが完了したのを見届けた細胞たちが「やれ終わった」とささやきあったのではないか。
わが子の生が始まった日に、親の終わりが始まっている。
僕の育児が「余生」というのはそんなわけです。
わが子がこの世に産声を上げる。その時までに、親の僕らがあげられるものはとっくに、すっかり、あげちゃっている。子が育つほど、この頃ほんとにそんな気がする。
子らそれぞれの育つ力に比べたら、そのあと僕らが彼らのためにやれること、してやれることといったら、ほとんどオマケみたいなものだ。
それだって、ほら、まともにやれてはいないのですからねーい。
十二月二十五日
せんせいあのね、
さんたさんがぷれぜんとを おくよなかにとてもがちゃが ちゃうるさかったです。
(中略)さんたさんはほんと うにいるでしょうかねーい。 もしかしてさんたさんじゃな くておとうさんかもしれませ んねーい。
(中略)おかあさんもとっても ほしがっていたノームのほん をおとうさんかさんたさんに もらいましたからねーい。
出典
- 娘(七歳)の日記ノート「おはなしあのね」より