ソラミミ堂

邂逅するソラミミ堂11 守りを守りする

このエントリーをはてなブックマークに追加 2015年7月8日更新

イラスト 上田三佳

 守りをする、というのはなんでもないことばのようだけれども、なかなかすごいことばである、とつねづね思っている。
 いなかのお年寄りならば、子どもの、家の、田んぼの、畑の、お墓の、お寺の、神社の、道の、水路の、川の、草木の、森の、お山の守りをする、など何にでもこの守りということばをつかう。
 守りをする、ということばは世話を焼く、とか面倒みるとか、管理するとか、別のことばに置き換えることができるけれども、それらを比べて、それぞれの含有成分をしらべてみると、守りをするでは、あずかっている、の意味の値がたいへん高い。
 その、あずかっている、というのも、いまこのときに空間的に、現にとなりにいるだれかからあずかっている、というだけでなく、過去から、と同時に未来から時間をこえて、先祖代々から子々孫々へ、世代をこえて預かっている、というのがそのこころである。
 あずけあずかる関係は、人間同士のあいだでだけではなくて、人と生きもの、人と自然の間にも成り立っている。
 守りをする、にはまた、守りする相手のなりゆきに寄り添いながら介添えをする、のこころも多分に含まれている。この用法はフナズシづくりの職人や、酒蔵の当主から教わった。
 あるお年寄りは自分自身の人生をさえ、いのちの守りをしてきたのだ、と言い切った。
 所有権、という不思議なものを(他の生き物への相談なしに)人間がつくって、コップや茶碗ならばまだしも、大地や水にもそれを広げた。値札をつけてそれを売り買いしさえするうえ、買ってしまえばこっちのもんだと決めている。そのうち大気や、雲や台風なんかにも、そんな不思議が及ばないとも限らない。そうなったときこそわれらが守りということばの出番なのである。
 琵琶湖とよばれる、こんなおおきな大事なものを、みんなで守りしているのであるから、守りをする、というすごいことばを守りしつづける、という素敵な役目を、われらほとりの民は背負っているわけである。

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