邂逅するソラミミ堂6 きりきりのぼん
世話人さんが、墓地に案内してくれたそうだ。岩手県大槌町吉里吉里地区の、集落と海を見下ろすその墓地で、
「先生、ここにある墓のうち三分の一には、骨が埋まっておりません」
と世話人さんは言ったそうだ。
そして続けて、
「先生、ここは漁師の村です。ということは、何年かに一遍は、沖へ出た漁師が遭難して、遺体もそのまま帰ってこないということが起こります。父や夫、息子といった肉親や、隣近所の知り合いが、沖へ出たまま帰ってこない、ということが起こるのです」。
だから、この村の墓地には、骨の埋まっていない墓が三分の一も出来るのだ、とわけを聞かせてくれたのだという。
「ここで生きていれば、誰もが直接、間接に、そういうことを経験しているのです。ずっと昔から、誰もが、何度も。だから今度の津波が初めてということではないのです」。
と。
その吉里吉里集落の盆踊りは、十五夜の日、他の灯りをともさずに、満月の光のみを頼りに踊られるのが倣いであった。
「明るいと言ってもぼんやりとしたお月さんの光の中で踊っていると、前で踊っているのが、先年沖へ出たまま帰ってこなかった父ちゃんなのか、はたまた後ろについて来るのが、この冬行方知れずになった隣の家の兄ちゃんなのか、だんだん分からなくなるのです。そうしてなんだか、みんなで一緒に踊っているような、だんだんと、そんな気持ちになるのです…」。
年明けの学び初めの勉強会で、そんな話を、シブサワ先生は、ぼくらに聞かせて下さった。
もう長い長いあいだ、海で生きてきた人びとのこと。人々が海で生きること。くりかえすつらいこと、かなしいこと。けれどもおそらく、それよりもっと深いふかいきもちを、人びとは、村は生きている。
生と死の二分法では計りきれない、死者たちとともに生きる暮らしがある。
お正月、そしてお盆に先祖と過ごす僕らもそれを知っている。