邂逅するソラミミ堂5 棒師匠
失われてしまったもの、そのためのワザ。行われなくなったこと、そのための知恵。
けれど本当に大事なことならば、きっといまでも、ぼくらのまわりにわれらのなかに、姿を変え、形を変えてひきつがれ、息づいているのだとおもう。
「てんびん棒」を担いでものを運ぶということは、昔はだれもがしていたが、いまやぼくらのまわりでは、すっかり廃れたことのひとつだ。
てんびん棒は、いっぽんの棒の両端に荷物を吊し、肩で担いで歩いて運ぶための道具だ。
いっぽんの棒といっても、これがなかなか奥深い。
木の棒ならば何でもよいというわけではない。霊仙のふもと、にゅ~みん谷のノゾミさんの話では、モーチの木のがよいという。堅いだけではだめである。しなやかなねばり強さが肝心だ。なぜならば。
たとえば前後に桶を吊して肥持ち(註)をするとき。
重い荷を吊した棒の両端が、歩くリズムで上下にしなる。人間の歩くリズムとてんびん棒のしなるリズムがぴったり合うと、弾みがついて、ひょい、ひょい、ひょい、とからだがかってに前へ前へと運ばれる。
ものを運ぶというよりも、ものもからだもてんびん棒に運ばれている。
リズムが狂うと桶の中身がびしゃびしゃはねてこぼれてしまう。力まかせは無駄に疲れる。
琵琶湖の上を西へ東へ物資を運ぶ丸子船。船主だったシゲオさんのてんびん棒は、カシの木製だ。
船の端から荷揚げ場へ渡したわずか一尺あまりのせまい橋板の上を燃料割り木の束を担って運ぶのである。棒のしなりと人の歩調に、重みでたわむ橋板のリズムも合わす曲芸である。
いかにも小柄な年寄りたちの身のこなし、てんびん棒を肩に担ってスイスイと歩く姿の美しさ。
絶妙のしなりを引き出すために、経験を通じて選ばれた材の、歴史に磨かれ、扁平にデザインされた棒そのもの美しさ。
人と自然の、人と道具のかかわりがまるごと詰まったいっぽんの不思議の棒が、偉大な師匠なのである。
註…貴重な肥料であった糞尿を便所や肥溜めから汲み出して田畑に運び、播くこと。