邂逅するソラミミ堂3 ヤカンに極まる
「一期一会」という言葉を世にひろめ、ひろめただけでなく息を吹き込んでこの語を完成させたのは井伊直弼公である、ということは意外に知られていないのだろうか。遠来の客に教えると、へえ、と感心して下さる。
直弼公の著した『茶湯一会集』の中の、この語の出てくる「独座観念」という一節が素晴らしいので書き写して座右に掲げ、ときどき声に出して読んでいる。
このごろ流行の「おもてなし」も結局これに尽きると思う。
即ち「主客とも餘情残心を催し、退出の挨拶終れば、客も、露地を出るに高声に咄さず、静にあと見かへり出行ば、亭主は猶更のこと、客の見へざるまでも見送る也。扨(さて)、中潜り・猿戸、その外、戸障子など、早々〆立などいたすは、不興千万、一日の饗応も無になる事なれば、決て、客の帰路見えずとも、取かた付、急ぐべからず。いかにも心静に茶席に立もどり、此時、にじり上りより這入、炉前に独座して、今暫く御咄(はなし)も有べきに、もはや何方まで可被参哉(まいらるべきや)、今日、一期一会済て、ふたゝびかへらざる事を観念し、或は独服をもいたす事、是、一会極意の習なり。此時、寂莫として、打語ふものとては、釜一口のみにして、外に物なし。誠に自得せざればいたりがたき境界なり」と。
茶の湯の心得なんてちっともないし、いくつも門扉があるような立派な風流な家でもないが、お客のある時には、せめて気持ちばかりはと直弼公の見よう見まねをやってみる。
さよならを交わしてからなお、余韻を分かち合いながら、そこの辻まで、駐車場まで、車が角を曲るまで。駅でなら、電車が行ってしまうまで。部屋に戻ってお茶を一杯。皿に残ったお持たせのお菓子をひと口。「今ごろあの駅あたりかな。むこうはもっと冷え込むんだな。ああ、今度いつこんなふうに会って話ができるかな…」。
別れてのちのこのひととき。人の出会いはここに極まる。
もっともこちらは「此時、寂莫として、打語ふものとてはストーヴの上のヤカンのみにして、外に物なし」という体で、直弼公には面目ないが、これも一つの境涯と思う。