ソラミミ堂

邂逅するソラミミ堂2 手を詣でる

このエントリーをはてなブックマークに追加 2014年10月10日更新

イラスト 上田三佳

 今や正吉さんや悟さんの手を触らせてもらうのが目的であるかのようになってきた。沖島通いもこれで十年近くなる。
 その手に対して抱く僕のおもいは崇敬というよりもささやかな信仰と言ったほうが良いかもしれない。なんとなればその手の前に頭を垂れて二三べん撫でてもらいたいくらいだ。
 だから沖島には「通う」というより「詣でる」気分なのである。手を詣でる。
 いかに十年来の知り合いとはいえ毎度自分ひとり訪ねて行って手を触らせて下さいというのでは気味悪がられるに違いないが、幸いにして仕事がら学生を引率しまた友人を案内して行くことが多いのだから「ほらほらきみたちこの機会に是非触らせてもらいなさい。どうですか。これがじつに七十年以上漁師一本で生きてきた人間の手なのですよ」という具合に指導にかこつければ、遠慮なく触ることが出来るし、老漁師がたも「いつものがまたはじまった」と苦笑いしつつはにかみながらも、孫世代の子らに囲まれて満更でもない様子で許してくれる。
 学生に言わせれば「グローブのようにごつくて足の裏よりかたい」それに自分が触れたいというのもあるけれど、人間というもの生きるということのすごさやゆたかさについて皆にも同じように驚きつつ、省みてわが手の貧相を知ることも含めて共に学びたいのも動機であって、見知った漁師をつかまえては、その手に触らせてもらいまた人に触ってみさせている。そしてその効果はてきめんで「あの手に触れただけでも島に渡った甲斐があった」と感激する友人も一人二人でない。
 同じ漁業というなりわいに従事していてもその相手とする魚種の如何また漁法如何によってこの漁師あの漁師の手のぶあつさかたさや日焼け具合が違うというのは不思議でもあり、理屈を知ればなるほどとも思う。
 その魚のやわ肌を網からはずすのに手袋をはいてはいられない夏、一名雨の魚ともいうビワマスの漁期が終われば、冬に向かって正吉さんの手はかえってやわらかになるそうな。氷魚の季節に比べにまた手を詣でよう。

 

スポンサーリンク
関連キーワード