ソラミミ堂

淡海宇宙誌 XXXXVII いればてがとどく

このエントリーをはてなブックマークに追加 2014年5月7日更新

イラスト 上田三佳

 引っ越しのてんやわんやで、桜を今年は、見たような見なかったような、という間に散りました。
 毎年そんなことを言っているなあ。
 つまり僕には桜は、いずこで、だれと、いかに見たかということよりも、どういうわけで、いかに見られなかったか、ということによって毎年印象深い、そういう花になってしまったのかもしれません。
 さて引っ越しはまだ道半ば。桜の花はあれだけ派手に散っても散っても散らからないが、家財・道具はそうは行かない。今後しばらく、積み上げてある荷をほどき、一点一点面接の上、配置を決めねばなりません。
 思い出すのは、お婆ちゃんちの台所、お爺ちゃんちの隠居部屋、あるいは例えば職人さんの仕事部屋とか湧水の郷に訪ねたカバタ。鍋釜食器にコメ味噌しょうゆ。新聞、めがね、文具に入れ歯に常備薬。しろうと目には見分けもつかない何百丁ものノミ、道具。桶、ザル、タワシに歯磨き粉。
 あれだけモノでいっぱいで、一見雑然としているようで、しかも決して散らかってはいない。あるべきものが、あるべき場所に、あるべきように収まっている。仕上げにあるじが収まれば、呼べば応える。目を瞑ってもその座にいれば手が届く。自由自在の出来上がり。あの先生や編集長のデスク周りもそんなです。
 その充溢の有り様は、そぎ落とされた二畳の茶室と対極ながら、一脈通ずるものもあり。生活もまた「道」であり、おのずからなる理路もあり。けれどまた、ある時ひょいと乗っけたらしい、やや珍妙な置物が部屋の要になっているのを見れば、そんな境地も理詰めばかりで至れるものではないのです。

スポンサーリンク
関連キーワード