桜の名所からモミジの山へ
木之本小唄は「春は田上の桜の盛り どこを向いても人の波」という一節ではじまる。17番まであるというこの唄は、春祭りなど木之本の人たちの宴の場では必ず歌われたそうである。
ここで「田上(たがみ)」と歌われているのは、木之本地蔵尊の少し北に位置する田上山だ。賤ヶ岳の戦いにおいて豊臣秀吉が築いたという田上城跡であり、現在麓には田上観音寺と意富布良(おほふら)神社がある。かつて、唄にもある通りここは、山一面に桜が咲き誇る桜の名所であった。木之本で暮らしてきた多くの人の記憶の中には、この山でゴザを敷き花見を楽しんだ思い出が残っている。
また地元の人だけでなく、当時木ノ本駅近くにあった仐製糸工場に働きに来ていた女工たちにとってもこの桜の下での花見は楽しみだったそうである。
名所を守るため、桜の木は代々地元の人たちの手で大切に世話されてきたが、ソメイヨシノはもともと短命な樹木である。近年次第に木が弱り花が咲かなくなってしまっていた。また、昔は焚き木を集めることで、わざわざ整備せずとも山が美しかったのだが、生活様式の変化とともに、山が荒れはじめた。ある男性が「昔ここらの子どもたちは皆この山で遊んだ。土倉鉱山から切り出された鉱物のキラキラしたかけらを山のあちらこちらに埋めたもんや」と嬉しそうに語ってくれたが、今や山で子どもが遊ぶ姿を見ることもなく、人の暮らしは山から離れてしまっている。
その田上山を再びいこいの場にしようという取り組みが昨年から始まった。今度は桜の山ではなく、モミジの山にしようという計画だ。
秋晴れのこの日は地元の小学生からお年寄りまでおよそ100名が参加し、モミジ約100本の植樹が行われた。1本の木を植えるのに、お年寄りが中学生を指導し、伊香高校野球部の生徒たちが小学生の手助けをし、作業は和気あいあいと進められた。
植樹のため事前に森林組合や自治会の人たちが山を整備したことで、植樹を行った場所からは木之本の町並や琵琶湖が一望でき、さらに見晴らしの良いところには展望台が設置されている。また、あたりを見回すとそこここに石仏。これは何ですかと尋ねると、支那事変と太平洋戦争の戦没者を供養するために、西国三十三箇所、四国八十八箇所の写し霊場として祀ったものだとのこと……。今後はモミジの木の植樹に加えて遊歩道の整備も行う。田上山は景色・石仏・紅葉を楽むことができる場所に生まれ変わりそうである。
この活動の中心人物である木之本自治会長の武田正彦さんは「モミジが立派な木になるころ、植樹に参加した小中高生も大人になる。自分の植えた木に愛着を持ってもらい、この山を守り続けて欲しい」と語る。いつか「秋の田上は紅葉の盛りどこを向いても人の波」となる日が来るに違いない。
【青磁】