歴史に二人の源義経あり!

このエントリーをはてなブックマークに追加 地域: 湖北町 2011年12月19日更新

 「歴史に二人の義経あり!」平家打倒の最大の労を功したのは「源(九郎)義経」、そして、彼とほぼ時期を同じくして活躍したもう一人の義経がいた。湖北出身の「源(山本)義経」である。
 聞くところによると、九郎義経は源義家の子孫で、源平の合戦で華々しく登場し、悲劇の最期を遂げた英雄である。一方、山本義経は義家の弟「新羅三郎義光」の子孫だという。山本義経の名は山本山(長浜市湖北町山本)を拠点にしたことにちなむという。山本山の登山口にある朝日山神社にはこんな伝承がある。
 —源頼朝が平家追討の旗を上げ、各地で源氏が蜂起し、呼応した山本義経は、軍議の際、境内の松に鎧をかけたことから、その松を「よろいかけの松」と呼ぶようになった—。境内に残る松は何代目かになると、長浜市文化財保護センターの山﨑清和さん(55)が教えてくださった。
 『玉葉(平安時代末期から鎌倉時代初期にかけて執筆された公家九条兼実の日記)』や『吾妻鏡(鎌倉時代に成立した歴史書)』によると、治承4年(1180)、山本義経ら近江の源氏は琵琶湖の水運をおさえるなどして京の平家を押さえ込もうとしたが、「平家随一の知将」ともいわれた平清盛の4男・平知盛軍が出陣。近江を北上し、山本山を攻撃したことが記されている。山本山は落城するが、山本義経は敗走し鎌倉にいた頼朝と会見する。自らを平家追討の先陣にしてほしいと願い出たのだ。そして約3年の後、山本義経は、頼朝の元を離れ木曽義仲の軍に加わり、義仲軍は「倶利伽羅峠の戦い」で平家の大軍を破った。

 山本山には義仲にちなんだ言い伝えもある。
 —義仲は上洛の途中山本山に陣を布いた。そのときに義仲の愛妾巴御前の産んだ子がすぐに亡くなってしまった。義仲は子を葬り、五輪塔を建て松を植えた。わが子を思い振り返りつつ京へ向かったため、この松を「みかえりの松」と呼ぶようになった—。言い伝えられている塔は、山本の集落のはずれに残っている。
 なぜ山本義経は頼朝から離れ義仲についたのだろう。「湖北が拠点の山本義経にしてみれば、木曽から京へと攻める義仲とは距離的に近いという地理的なことではないでしょうか」と山﨑さんは推測する。
 平家を追討した功労により、山本義経も昇格する。しかしその期間はわずかであった。京での狼藉が目立った義仲を追討する勅命が頼朝に下ったのだ。実動部隊として動いたのは源九郎義経。かたや義仲軍の山本義経。「宇治川の戦い」でふたりの義経は対峙することになった…。義仲軍は敗れ、義仲は大津の粟津で討たれ、山本義経も歴史の表舞台から姿を消すことになる。
 「今でこそ義経といえば九郎義経を指しますが、当時の都から見れば辺境の奥州で過ごしていた九郎義経より、義仲の片腕として活躍した山本義経の方が有名であったはずです。宇治川の戦いでふたりの知名度が逆転してしまったのでしょう」。

 2012年のNHK大河ドラマは「平清盛」である。山本義経の登場は期待できないが、DADAではしばらく、源平縁の地を追いかけていくことにする。
 
 

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