湖北のキリシタン灯籠

このエントリーをはてなブックマークに追加 地域: 長浜市 2011年8月5日更新

国友町「因乗寺」のキリシタン灯籠

 イエズス会のフランシスコ・ザビエルによってキリスト教が日本に伝来したのは、鉄砲伝来と同じ天文18年(1549)のことだ。織田信長はキリスト教布教に寛大だったが、信長の後を継いだ豊臣秀吉はバテレン追放令を出し、宣教師を国外追放。徳川の世となるとキリシタンへの弾圧と迫害はさらに強まり、幕府は踏み絵を強制するなどキリシタン狩りを行った。しかし熱心な信者は密かに信仰を続け、その礼拝対象となったのが、キリシタン灯籠であり、マリアに見立てた観音像だった。
 キリシタン灯籠は、竿石と呼ばれる灯籠の支柱に当たる部分が十字形になっている。竿石の下部にキリストやマリア像が彫られていることなどが特徴だ。一説には戦国時代の武将で茶人でもあった古田織部の考案ともされることから「織部灯籠」とも呼ばれる。のちに礼拝物とは知らずに庭園の観賞用として設置されていった。
 湖北にもキリシタン灯籠があると知り、2基を見てきた。 1基は長浜市国友町「因乗寺」の本堂北側の庭園にある。高さは160㎝ほどで、あまり厚みがない。竿石は丸みを帯びてはいるが十字形になっており、像の彫刻は風化してはいるものの、人物像だとわかる。
「いつから灯籠があるのか詳しいことはわかりません。当寺は室町時代に創建され、今の庭園にあたる場所は竹やぶが広がっており、信者の方が礼拝に来られていたと聞いています」とご住職の湯次行隆さん(55)が教えてくださった。竹やぶは、人目をそらすには好都合だったのだろう。
「あくまで推測ですが、寺の敷地内に置かれていたのは、明治まで神社仏閣が習合していたように、信じる対象が違っても信仰される方を受け入れていたということかもしれません。灯籠だからお寺にあっても違和感はありませんしね」
 国友といえば、鉄砲鍛冶のまちとして知られている。信長は国友鉄砲を武器にして、戦を繰り広げた。キリスト教を保護した信長と、もしかすると因乗寺のキリシタン灯籠は関係があるのかもしれない。

虎姫町大寺のキリシタン灯籠

 もう1基は、JR虎姫駅近く、大寺という集落の個人のお宅のお庭にある。
 国友と同様に高さや幅は、国友のものと同じくらいだが、下部の像はより女性的な印象を受ける。
 お家の方によると、もともとは同じ旧虎姫町内の宮部で、代々旅館を営んでおられたそうだ。江戸時代、西江州から石材屋さんが仕事で長逗留した。その宿賃が支払えずキリシタン灯籠を代わりに置いていったという。やはり、庭園の観賞用素材としての価値は高かったということなのだろう。
 明治末期に姉川大地震が起こり旅館は半壊したが、灯籠は無事だった。その後、現在地に移ってくるときに灯籠も一緒に運ばれたそうだ。後にクリスチャンの人に教えてもらい、キリシタン灯籠であることが判ったという。文化財でもあるし大切にしなければならないと、かつては月初めにお神酒やお塩を供えていたそうだ。キリスト教の信仰形式がわからなかったため、お稲荷さんの祀り方に倣ったのだという。
 二つのキリシタン灯籠を見て思い出したのが、安土城城下でオルガンティノ神父より洗礼を受けた浅井長政の姉、京極 マリアだった。彼女と灯籠は無関係だろうが、そこに在ることで遡ることができる時空がある。そのことがとても面白かった。
 余談だが、DADAの小太郎さん曰く、「これで、キリシタン灯籠の形状が判った。湖東・湖北には埋もれているキリシタン灯籠がまだまだあるはず。二つでは判らないけれど、沢山になったら何か判るかもしれない…」ということであった。在ることで判ることになる何かに期待したい。

参考

  • 「広報とらひめ」2007年5月号

 

因乗寺

滋賀県長浜市国友町518
TEL: 0749-62-2614

拝観の場合は事前連絡が必要です。

店舗等の情報は取材時のものですので、お訪ねになる前にご確認ください。

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