井伊直興公の2つの墓

このエントリーをはてなブックマークに追加 地域: 東近江市 2010年10月3日更新

2010年9月19日に井伊直岳氏が永源寺を公式参拝

明治以降歴代藩主参拝は、公には途絶えていたが、井伊家第18代当主井伊直岳氏が公式に墓参りをされ、霊廟が一般に公開された。

松雲寺の井伊直興公霊廟(東近江市妹町644)

永源寺の井伊直興公霊廟(非公開)

 彦根藩井伊家の墓所は、彦根の清凉寺と東京の豪徳寺だが、彦根藩4代藩主直興は、臨済宗永源寺派の大本山、永源寺に霊廟が置かれている。戒名は「長壽院正四位上前羽林中郎將覺翁知性大居士」。
 直興は、延宝4年(1676)、城主となり、彦根城内の槻御殿や楽々園、玄宮園の建造をはじめ、松原港・長曾根港を改築するなど土木事業に熱心であった。また、日光東照宮改修総奉行を務めたことでも知られている。また、彦根の大洞弁財天堂(長寿院)はすべての領民から一文ずつの奉加金を募り建造するなど仏教に深く帰依した人物でもある。
 直興には33人もの子がいたが、ほとんどが夭折しており、自身も体が丈夫ではなかった。元禄14年(1701)次男の直通に家督を譲って隠居。その直通が宝永7年(1710)、22歳で早世。三男の直恒が後を継いだが、同年早世する。直興は既に剃髪し覚翁と号していたのを還俗し、名を直該(なおもり)と改めて、再び藩主となった。
 こうした境遇のなかで、直興と親交を深めたのが、永源寺86世住持・南嶺慧詢(なんれいえじゅん)であった。南嶺禅僧は高宮町の徳性寺を再建したのち、永源寺に入り、その後東近江市の松雲寺を興した人物である。直興の得度は南嶺禅僧のもとで行われている。あまり知られていないが、直興の墓が永源寺だけではなく、松雲寺にもあるのも南嶺禅僧との親交によるものだろう。
 直興亡き後、歴代藩主は毎年4月の命日に永源寺の霊廟へ参拝していたそうだが、明治以降は公には途絶えていた。先日9月19日、井伊家第18代当主、井伊直岳氏が公式に墓参りをされ、霊廟が一般にも公開された。永源寺と直興との関わりを知ってもらおうと「大本山永源寺重要史跡を訪ねて」実行委員会が企画したものだ。
 ところで、直興は庶子千代之助を南嶺慧詢に託している。千代之介は出家後、弁慧(べんえ)と改名。その後、京都に上り、名を本空と改め般舟三昧院(はんじゅざんまいいん)15代住持となり、自ら寺の建立を決意するが病死。本空の弟子・義空がその遺志を継ぎ、本空を初代住持とし佐和山の麓にある「仙琳寺」が誕生する。今、ひこねキャンドルナイト実行委員会が竹林整備を行っているところだ。
 時の流れは途切れているようでも、何らかのカタチで今と繋がっている。ある時に至ってそうだったのかと判る瞬間が、実に面白いのである。

参考文献
「元禄の大老 井伊直興」編集・発行彦根城博物館(2006年)
「仙琳寺の歴史と美術」展示図録(彦根城博物館)

臨済宗大本山永源寺

滋賀県東近江市永源寺高野町41
TE: 0748-27-0016

店舗等の情報は取材時のものですので、お訪ねになる前にご確認ください。

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