謎だった小さな鳥居

黒田神社

このエントリーをはてなブックマークに追加 地域: 木之本町 2010年3月3日更新

黒田神社の鳥居

 その鳥居を見つけたのは、木之本町から余呉町の境付近、国道365号がカーブするあたりだ。
 境内の入口には黒田神社と記された大きな石碑と太鼓橋がかかっている。太鼓橋のすぐ向こうにある鳥居が異様に小さい。160㎝くらいの高さだろうか。建立されたのは平成12年。地域の方が還暦を記念して奉納されたことが、柱の裏に刻まれていた。その奥には通常の鳥居がある。境内を見渡す限り小ささの由来はわからない。
 由緒記によると、黒田神社は天正11年(1583)賤ヶ岳の合戦で焼失し近くの大澤寺に合祀されていたが、明治期に当地に戻されたとある。
 賤ヶ岳の合戦といえば、織田信長の後継を争って柴田勝家と羽柴秀吉が激戦を繰り広げ、秀吉が天下をとった戦いだ。山岳戦を得意とする勝家軍と、平地戦に優れた秀吉軍はそれぞれ賤ヶ岳周辺に点々と陣地や砦を設け、長期戦となった。一帯には今もその遺構が多く残っている。
 ふと思い立って訪ねた大澤寺にも、合戦の名残があった。境内の梵鐘は、寺から通じる大岩山砦に駐留していた柴田軍の佐久間盛政が、大垣から秀吉軍が帰陣したのを味方に知らせるために乱打したと伝えられている。
 当時秀吉が大垣にいたのは、秀吉に降伏していた信長の三男・織田信孝が挙兵したためだ。これを機会に盛政が秀吉軍の陣地であった大岩山砦を陥落させた。盛政の猛攻を知った秀吉は、大垣から木之本までの52㎞をわずか5時間で舞い戻る。「美濃返し」として有名な逸話である。
 秀吉が帰還するまで盛政の攻撃に奮戦し守りぬいたのが、黒田孝高だ。通称・官兵衛、キリシタンとしての洗礼名・如水の方がなじみがあるだろう。
「自分に代わって天下を治めるのは黒田孝高であろう」と秀吉に言わしめた名軍師である。また長男の長政は関ヶ原の戦いで武功を挙げ、初代筑前(福岡)藩主に就いている。
 孝高は姫路生まれだが、黒田家のルーツはまさにこの賤ヶ岳のふもと、黒田神社や大澤寺のある木之本町黒田だと伝わる。黒田氏の始祖は源宗清といい、孝高は宗清から数えて9代目。黒田の会館がある広場は、古くから黒田家屋敷跡と伝えられており、「黒田判官源宗満」と刻まれた石も出土している。黒田家がこの地から離れたのは6代高政のとき。軍令に背いたために当時の将軍足利氏の怒りに触れ、それが原因となって備前に移り住んだとされている。
 ところで黒田神社の小さな鳥居である。「腰をかがめ、ひざを曲げて鳥居をくぐることで神様への敬意をあらわしたのだ」と教えていただくことができた。黒田を歩いたおかげである。こんな時ほど、嬉しいことはない。春もぐ〜んと近くなったようだ。 

 

黒田神社

滋賀県長浜市木之本町黒田1697

黒田家屋敷跡

滋賀県長浜市木之本町黒田727(黒田集会所)

大澤寺

滋賀県長浜市木之本町黒田1788

*大澤寺拝観についての問い合わせは長浜市役所木之本支所 産業振興課 TEL: 0749-82-5902

店舗等の情報は取材時のものですので、お訪ねになる前にご確認ください。

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