百間橋の記憶
豊郷町といえば、日本各地で活躍した近江商人を数多く輩出している地として知られている。そのひとりが藤野喜兵衛喜昌(きへいよしまさ)である。幕末、12歳で単身北海道へわたった喜兵衛は呉服店に見習いとして住み込み、その後「柏屋」という屋号と「又十」の商標で独立開業する。そのかたわらで漁場を開発、廻船業で成功を収め、文政10年(1828)、44歳でこの世を去った。その業績は代々受け継がれ、缶詰のブランドで知られる「あけぼの印」の成功につながった。
喜兵衛の旧宅は「又十屋敷(豊会館)」として公開されている。書院、本屋、文庫倉庫、庭はそのまま残り、美術品や武具が展示されている。その中には、交流が深かった井伊直弼からの拝領品も多い。
嘉永5年(1852)、直弼は豪商藤野四郎兵衛に湖東焼の経営を委託している。13歳で喜兵衛の跡を継いだ息子である。結果、四郎兵衛は2年間で一千両以上の損失を招き、湖東焼の委託経営を辞退することになる。
又十屋敷の玄関には短い木柱が置いてある。柱には「百間橋」と刻まれている。「百間橋」はかつて彦根の松原内湖(大洞内湖)に架けられた橋だ。
百間橋の歴史は、石田三成が佐和山城下を統治していた頃に遡る。三成の家臣・嶋左近の指揮のもと、内湖に通路をつくったのだ。古い地図を見ると、通路はクランク状に走っている。百間橋はこの通路のうちの琵琶湖側の約540mの木橋の部分を指す。百間は約180m。橋の名の「百間」は非常に長いということを形容する言葉としてつけられたようだ。「三成に過ぎたるもの、嶋の左近と佐和山の城」とは三成を表す言葉として知られているが、「嶋の左近と百間橋」とも言われたことがあった。それほど重宝された橋だったということなのだろう。
関ヶ原の合戦後、井伊直政が松原内湖の南の彦根山に築城を計画し、彦根藩の時代になっても百間橋は物資の重要な運搬経路だった。ただ三成の時代の橋がそのまま使われていたのではなく、何度となく架け替えられ、場所もまったく同じだったわけではないようだ。ちなみに大洞弁財天に祀られる約4千体の大黒天像は、彦根藩主第4代井伊直興が百間橋の残り木でつくらせたとも伝わっている。
松原内湖が埋め立てられたのは戦中のことだ。食糧増産の農地確保のために昭和19年から始まった干拓事業(昭和22年完了)である。百間橋はこれを最後に姿を消し、その一部分が又十屋敷に残った。「なぜ橋の名残がここにあるのか皆さん不思議がられるのですが、わからないままなのです」と又十屋敷の館長北村進さんも首をかしげる。
この屋敷には直弼と四郎兵衛にまつわるエピソードがいくつも伝わっているが、百間橋と又十屋敷をつないだものはいったい何なのだろう……。歴史の謎はいたる所に偏在している。案外、鍵はもっと今に近い過去にあるのかもしれない。
又十屋敷(豊会館)
滋賀県豊郷町下枝56 / TEL: 0749-35-2356
開館時間 9:00〜16:00 休館: 月・水・金曜日
入館料 200円
店舗等の情報は取材時のものですので、お訪ねになる前にご確認ください。
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