近江の豪商 薩摩家三代記 —薩摩治兵衛とその孫バロン薩摩—
昨年秋、公益財団法人「芙蓉会」から、「近江の豪商 薩摩家三代記—薩摩治兵衛とその孫バロン薩摩—」という本が発行された。数多ある近江商人の栄光のなかで、薩摩治兵衛と薩摩商店の名前が取り上げられることはあまりないだろうと思う。そして、その孫であり「バロン薩摩」として知られる薩摩治郎八も、近江商人という系譜のなかで語られることは少ないようだ。薩摩家は、「近江商人」として忘れられた存在と言えるのだろう。
薩摩治兵衛は、天保元(1830)年、犬上郡四十九院村(現在の豊郷町四十九院)の貧しい農家に生まれた。早くに父を失い、極貧の家族を助けるために十歳で奉公に出た苦労人である。治兵衛は勤勉に働き、暖簾分けされて木綿商として日本橋に店を構えた後も、幕末の混乱期を商才と努力で乗り切り、明治期には「木綿王」と呼ばれ、長者番付にも名を連ねるほどになる。成功譚の見本のようなひとだ。
そんな薩摩治兵衛が忘れられたのは、薩摩商店が、戦後まで生き延びることができなかったためだろう。明治42(1909)年に初代薩摩治兵衛が亡くなり、世界恐慌が訪れた後、商売を存続することができず、昭和9(1934)年頃には廃業を余儀なくされたのである。
そしてその孫・治郎八は、大正9(1920)年に渡英。のちにパリに移り、父である二代目薩摩治兵衛から潤沢な仕送りを受けながら、戦前のパリ社交界で華々しく文化人と交流した。その豪華さから、爵位があったわけではなく、渾名として「バロン薩摩」と呼ばれたという。昭和4(1929)年には、薩摩家の資金でパリ国際大学都市に日本館を建立しフランス政府から叙勲を受けるなど、日仏の文化交流においても活躍し名を残した。第二次世界大戦中も含む約30年間のほとんどをフランスで過ごした治郎八は、昭和26(1951)年に帰国。その後は、本場ヨーロッパで培った豊富な知識を活かした執筆活動などをしていた。また、浅草で踊り子をしていた女性と結婚、晩年は夫人の故郷徳島で暮らし、昭和51(1976)年に世を去った。
その破天荒な人生は、生前には獅子文六や瀬戸内晴美によって小説化され、2000年代に入っても「『バロン・サツマ』と呼ばれた男 薩摩治郎八とその時代」(村上紀史郎著・藤原書店)などの書籍が発刊行され、知る人は多い。しかし、治郎八については、近江商人の後裔としてではなく、日本橋の富豪の御曹司として語られることが多いようである。
成功後、貧窮者を救済する制度をつくるなど地元にも貢献したため、初代治兵衛の故郷である豊郷町四十九院には、主に初代と二代目治兵衛の遺品や資料が多く残され、同町の「先人を偲ぶ館」に保管されている。本書は、それらの資料をもとに、貧しいなかから近江商人として成功した初代、それを受け継ぎ、息子の豪奢な生活と文化事業を支えた二代目、そして「バロン薩摩」と呼ばれた三代目までの約150年をひとつにまとめた初めての書籍である。
豊郷は、伊藤忠の伊藤家をはじめ、現在に続く成功を収めた近江商人を多く輩出した土地だ。本書を発行した芙蓉会の代表理事・古川博康さんは、「初代が築いたものを、企業として軌道に乗せられたかどうかが、のちの成功を分けた。伊藤家と薩摩家のような、対照的な家がこの豊郷にあるということがおもしろい」と話す。
本書には、まだご存命である治郎八の晩年の妻・利子さんがともに過ごした20年間を振り返る「バロン・サツマと私」が収められている。豪奢なヨーロッパ生活から没落したと見られがちだろう治郎八の、穏やかな晩年を知ることができる。治郎八は、昭和51(1976)年の2月22日、ちょうど今頃の季節、「マルセイユのようだ」と愛した徳島で、安らかな最期を迎えたという。
近江の豪商 薩摩家三代記 —薩摩治兵衛とその孫バロン薩摩—
定価:1,400円+税・発行:公益財団法人 芙蓉会・編著:古川博康
販売場所:豊郷町観光案内所 犬上郡豊郷町石畑518
TEL: 0749-35-3737
店舗等の情報は取材時のものですので、お訪ねになる前にご確認ください。
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