蕉門十哲・森川許六 三百回忌

このエントリーをはてなブックマークに追加 地域: 彦根市 2015年9月18日更新

 今年は、彦根藩14代藩主・井伊直弼公生誕から二百年の年である。関連行事もあちこちで行われている。直弼公が槻御殿で生まれた年からさらに百年前、森川百仲(ももなか)という藩士が城下で亡くなった。俳諧師・松尾芭蕉の弟子として知られる、森川許六である。芭蕉最晩年の弟子で、交流期間は短いが、数多くいた芭蕉の弟子のなかでも特にすぐれた高弟10人「蕉門十哲」の一人にも数えられる。俳諧のみならず、絵画・書・剣・槍・馬術にすぐれ、「六芸に秀でたる才人」を意味する「許六」という号を芭蕉から授けられたとされている。彦根では、明照寺住職の李由とともに、彦根蕉門を創始した。俳論家としての功績が大きく、蕉門で最初の俳文集「風俗文選」の編などで知られる。現在でも、俳句をするひとには広く知られる存在だ。
 許六の命日にあたる8月26日、森川家の墓所がある長純寺(彦根市佐和町)で、三百回忌の法要が営まれた。三百回忌を記念し、彦根蕉門の流れをつぐ現代の彦根俳壇の8人から俳句が奉納され、長純寺の本堂の脇に句碑が建てられた。また、許六の代表句や彦根蕉門の競作、彦根俳壇の句、許六ゆかりの方の詩文が収録された追善集「雲の峰」が発行された。彦根市立図書館では、10月まで国文学者の尾形仂氏が寄贈した許六関連の資料が展示されている。
 追善集「雲の峰」に編集人として携わった成蹊大学の研究員・藤井美保子さんは、俳諧について学ぶべく手にした「風俗文選」の「俳句以上に、許六の文章に惹かれて」許六の研究をするに至ったという。藤井さんは、「彦根蕉門の魅力は、武士らしい潔さ、清らかさのある清新な句ですね。侍でありながら高尚なだけでなく、年末・正月を題に競作した『歳旦歳暮句合』などはとてもユーモラスですよ」と『乗初めに下手のあたるや門の松(木導)』などの句を教えてくれた。
 俳諧に対する自負が大きく、「俳諧の底をぬきて、古今に渡るものは五老井一人なり」と自称した許六は、後年傲岸不遜な人物と誤解されもしたが、他の蕉門門人との親交も厚く、多くの弟子に囲まれた生涯であった。「雲の峰」に集められた句には、彦根蕉門の武士たちの息づかいのなかに、許六を見ることができる。
 60歳で没した許六は、「長純寺宗旨替事なかれ」と子孫への「掟」にしたため、「五老井廟地はいかなることがあっても末代まで改葬してはならぬ」と遺言した。「五老井」とは、許六がむすんだ庵のことで、彦根市原町の跡地に句碑がある。武士として武道もきわめ、子孫へは武門らしい言いつけを遺しながらも、自分は俳人として葬られたかったのかもしれない。そして実際に、許六は五老井の地に葬られたとされている。法要の際、私が手を合わせた墓碑の下に、許六は眠っていない。五老井に、そして遺された文や画に、これから許六をたずねていきたい。

参考

  • 「彦根の先覚」彦根市立教育研究所(1987)
  • 「孤高の才人 五老井許六」石川柊(2005・朱鳥社)
  • 森川許六300回忌追善 雲の峰

    頒価…300円
    取り扱い…半月舎
    彦根市中央町2-29 / TEL: 0749-26-1201
    営業時間 12:00〜19:00 / 定休日 水曜日

    店舗等の情報は取材時のものですので、お訪ねになる前にご確認ください。

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