路上観察・始めました 4
ただ路地をゆく

このエントリーをはてなブックマークに追加 地域: 彦根市 2015年3月31日更新

「御城下惣絵図」でまち歩きを楽しむMAP「彦根城外堀マップ 前編」より

 弥生三月、四月のようにうららかな光を、窓の外に見ている。ああ、こんな日はまちへ出たい。
 「まち」といっても、乗り物に乗ってゆく遠くではない。すぐそこの路地に出たい。すぐそこの路地にはいろんなものがある。それを確かめにまちへ出る。
 手ぶらで歩いても十分に楽しいけれど、地図があるともっといい。路上に立って地図を見ることで、初めて気づくことを書き込んでいく。彦根の旧城下町を歩くなら、現在の地図だけでなく、江戸時代に彦根藩がつくった地図「御城下惣絵図」があるといい。発見も飛躍的に増えるのだ。
 また、ひとりで歩いても十分に楽しいけれど、気の合う仲間がいるとなおいい。私とは異なる視点で発見が増える。
 先月半ばのひどく雪が降った日、御城下惣絵図を手に、私は友人のSさんと、彦根の路地に繰り出した。何が知りたいというのではなく、ただ繰り出した。雪はやんでいたが、路上には雪が残る。二人とも長靴であった。
 この日歩いたのは、城下町の東端、武士と町人が混ざり合うように(といっても同じ町に両者は混在しない)住んでいたあたりで、現在の町名では「京町」と呼ばれている。
 市役所でもらった白地図と照らし合わせると、若干新しく追加された道や入れなくなった道、拡幅された道はあるものの、このエリアの道は江戸時代の状態がよく残っていることがわかる。
 御城下惣絵図には、いろいろなルールがある。堀や水路などの「水」は濃い青色、道は黄色、そして「土塁」など堀や水路の脇に土を盛った箇所は水色。各家の土地割が書かれており、住んでいた者の名前が書かれているがこれは武士だけで、町人が住んでいた場合は空白。地図の末端、道も町割りも描かれていない部分は城下町の外、つまり「村」とみなされる。そうしたことがわかると、また発見が増える。
 たとえば、このエリアは城下町の端なので、御城下惣絵図を確認すると、土塁と水路を境に、その向こう側は村になっている。実際にその場所へ行ってみると、「村」だった場所にひしめくように家が建っている。土塁の上にも建っている。土塁を通り、水路を渡り、村側に建てられた家にたどり着く家もある。土塁の上に建つ新築の家を見上げ、「ここに住んでいる人も、まさか自分が土塁の上に住んでいるとは思わないでしょうね」とSさんしみじみ。しかしそもそも「土塁」を知らないかもしれない。
 このエリアの特徴のひとつは、おおむね碁盤の目のようにタテヨコの道で構成される町割りのなかに、斜めの道と水路が挿入されている点である。これは、現在城下町エリアの最南を流れる芹川の旧流路の痕跡とされている。芹川は城下町造成時に、現在の位置に付け替えられた。その付け替えられる前の痕跡が町割りとなって残っている。碁盤の目のなかに斜めの町をつくったので、直角三角形の形に土地が余る。御城下惣絵図を確認すると、そこは「御年貢地」つまり畑になっている。城下町のなかに畑…現地を訪ねると、今でも畑として利用されているようだった。
 細かくは紹介しないが、お地蔵さんや、路地で野菜を育てている家(路地栽培)といった、たくさんの発見があった。長靴を履いていなかったら入れなかった場所にも、ざくざくと雪を踏み分けて入れた。長靴でよかった。
 国語辞典で「路地」をひくと、「家と家との間の狭い通路」と載っている。そういう意味では、私たちが辿ったのはただの「細い道」であって、「路地」とは言わないのかもしれない。しかし彦根には、「路地」でもないのに細い道がある。自動車の登場など予期しなかった江戸時代に、人の生活の感覚に合わせて造られた道だからだ。そうした道はやはり区別した名前で呼びたいし、今のところ「路地」のほかに言葉が見つからない。
 「彦根が彦根であるために、御城下惣絵図の状態や町屋を残すことが大事だ」とSさんは言う。すべてを残すことはできないということはわかっている。しかし語り継ぐことはできる。Sさんと私は、路地歩きの仲間を増やせたらとおもっている。

 

まち遺産ネットひこね

市民団体「まち遺産ネットひこね」制作の御城下惣絵図を使ったマップは現在7種類。
彦根城外堀マップ 前編・後編 / ひこね花しょうぶ通りマップ / ひこね七曲がりマップ / ひこね伝馬町・川原町マップ / ひこね本町・魚屋町マップ / 彦根駅前マップ

http://www.geocities.jp/machiisan_hikone/

マップ配布場所: 半月舎 滋賀県彦根市中央町2-29 TEL: 0749-26-1201

店舗等の情報は取材時のものですので、お訪ねになる前にご確認ください。

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