北極星に、今、夢を叶える力を願う

このエントリーをはてなブックマークに追加 地域: 2009年2月8日更新

彦根・蓮華寺前から北天を望む

 今から200年ほど前、日本中で星空を見上げていた一人の男がいた。伊能忠敬(いのうただたか)である。江戸時代後期、日本列島を測量し、「大日本沿海輿地全図」を完成させた人物である。その精度の高さ以上に、伊能忠敬50歳からの挑戦だったことに驚く。
 忠敬は、上総国(千葉県)で生まれ、若い頃は養子で入った伊能家の家業を盛りたてることに心血を注ぐばかりでなく、1783年の天明の大飢饉では、私財をなげうって窮民を救済するなど地域にも貢献している。そして、50歳になると、何の未練も無く息子に家業を譲って隠居し、江戸に移り、当時の天文学の第一人者、高橋至時(よしとき)の門下生となるのである。至時は31歳、忠敬は50歳。
子どもの頃から星や地図に興味があったわけでもなく、算術の天才であったわけでもない。忠敬は名家とはいえ農村に生まれ、養子に入った先でも、名主として農村の指導にあたった農民だった。織田信長が好んだ幸若舞(こうわかまい)には「人間50年」と謡われている。忠敬は、ちょうどその歳に一つの区切りをつけ、新しく始めたのだ。 
 忠敬は、55歳の時、緯度1度の正確な長さを確定するため、私費を投じて日本地図の作成に乗り出し、以後17年をかけ、途中からは幕府の仕事として、北海道から九州まで、沿岸と主要街道沿いを実際に歩いて測量する。歩幅は69センチ、一歩、一歩を数え、歩き始めるのだ。正真正銘の歩測である。
 忠敬の測量に欠かせなかったのが、夜の天体観測だった。昼間に歩測したデータに地球の丸みを考慮し、夜の星の位置を測って補正するのである。天測を行った場所は、後に地図上で☆印をつけて残してあり、DADAエリアにも、2度の調査で計3回訪れている。彦根城下の蓮華寺前や湖北町の尾上、木之本宿本陣前、飯浦などに☆印を見つけることが出来る。
 忠敬が歩測した緯度1度の距離は、現在と比べても誤差0.2%。北海道から九州までの沿岸を隈なく歩いた総延長約3万5千キロメートル。愚直なまでの一歩一歩、そして、正確な一歩一歩は約4千万歩。その一歩一歩は、湖東湖北にも刻まれ、忠敬と同じ場所に立ってみると、同じ北極星が今日も輝いている。
 冬の夜空は透明で美しい。今も叶えることができる夢があることを教えてくれる輝きである。

水源

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