雪女郎
『余呉の民話』という本に、「雪女郎(ゆきじょろう)」という話が載っている。民話は妖怪の宝庫である。妖怪コレクションのために読んでいると「屁売りじいさん」というタイトルを見つけて目的を忘れ、時間を失っていくこともしばしばだが、それはそれで楽しいものだ。
「屁売りじいさん」の話は機会があれば紹介するとして、今回は以前にも話した淡海の雪女の話である。天狗や河童と共に雪女は全国的に有名な妖怪だ。雪の降る場所であれば、大抵どこにでも伝承が残っているものだが、実は知る限りにおいて淡海の雪女は余呉の「雪女郎」だけであるところが興味深い。淡海の雪女をご存知の方は是非、ご一報いただければ幸いである。
さて、こんな話だ。
「こんなよさり(夜)はな、よく雪女郎がやって来るのやなあ。泣いとる子どもがおるとな、とおい山の方からごうという音がしてな、その音と一緒にな、真っ白な着物着たおなご(女)の人がやってきてな、泣いとる子どもを、白い着物の下にふわっと包んで、どこかへすうっとつれていってしまうんやそうな。そして外はまたしいんとしたよさりになってしまうんやそうな。あくる朝、みんながさがしにいったら、その子どもは雪の下に埋まって冷たくなっとったそうな」
この話で興味深いのは、「雪女郎」が現れるとき『遠い山の方からごうという音』がすると語られているところだ。雪女が登場する合図とでもいうのだろう。本の中で、この音は「新雪が何かの拍子に雪崩れて、雪玉となりながら谷底に落ちていく音だろう」と推察があった。冬にはよくあった現象らしく、山に囲まれた余呉ならではのエピソードだ。
一説には雪女は絶世の美人であるらしい。余呉の「雪女郎」もさぞや美しく出会ってみたいと思うのだが……。
ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)の『怪談』にも雪女がある。冷酷さと優しさを持つ美しい雪女で、悲しい話だった。
2人のきこり、茂作と巳之吉は暴風雨にあって小屋で一夜を明かすことになる。雨は吹雪になり雪女が現われる。茂作は雪女の吐息で殺されてしまうが、雪女は巳之吉に一目惚れしたのか、「ここであった出来事は誰にも話さない」という約束で彼の命を助ける。その後、巳之吉の前にお雪という女性が現われ、2人は結婚し、子供をもうけて幸せに暮らす。時が過ぎ、お雪の横顔を見ていた巳之吉は、あの晩の雪女に似ていることを話してしまうと、お雪の表情は険しくなり、その正体を現す。お雪は、巳之吉の命をとらずに、父親としての役割を果たすよう言い残し、姿を消すのだ。
全国的に見ても、雪女は子どもとセットで語られることが多く、さらってそのまま育てたり、雪の晴れ間に遊ばせたりする話もある。そうすることで、山に春を呼んでいるともいわれている。雪女は冬の終わりを告げる山の精霊でもあるのだろう。
「雪女郎」に話を戻す。
「ごうという音」を「新雪が何かの拍子に雪崩れて」という推察からすると冬の真っ只中である。また琵琶湖の北に暮らす者ならば大雪の前触れに風が渦巻くような「ごうという音」を知っている。雪女郎……冬の終わりを告げる山の精ではないような気がする。「雪女郎」は夜泣きする子どもをさらっていく。静かに吹雪の夜が過ぎるのを待つのが礼儀……。怖くないから安心して眠りなさい。そんなところに「雪女郎」の話の本質はあるのではないだろうか。美しい雪女郎が存在することで、家々には穏やかな夜が訪れるのである。
「話してはいけない」……それを破れば哀しい結末があるだけである。昔話には「見てはいけない」という約束もある。
僕なら「話さないし」「見ることもない」、眠らないのは得意だし子どもでもない。雪女に出逢ってみたいものである。冬はまだまだこれからである。