淡海の妖怪

古知古知相撲と八岐大蛇

このエントリーをはてなブックマークに追加 地域: 多賀町 2021年10月4日更新

古知古知相撲

 9月9日、重陽の節句。古来中国では、奇数は縁起がよい「陽数」と考えていた。陽数の最大値「9」が重なるので「重陽」という。この日、多賀大社では一年の豊年満作を感謝する秋祭り「古例祭」が行われ、豊凶を占う「古知古知相撲」の三番勝負は祭りの見所のひとつである。
 「古例祭」は昨年はコロナ禍で中止となり2年ぶりの祭典だったが、新型コロナウイルス感染症拡大防止対策として、 密接が避けられない御鳳輦(ごほうれん) の出御は取り止めとなった。「頭人」は髙木喜一郎さん(多賀町尼子)が奉仕し、本殿祭りが終わると、おおよそ1キロ先の御旅所まで騎馬など約130名のお渡りが行われた。
 「古知古知相撲」奉納は、東方 「多賀の里」小田龍斗さん、西方「寿命ケ石」林建伸さん、弓取り式は伊藤羽祐麻さんの滋賀県立大学1年生の3人が大役を担った。
 毎年四股名は同じで、多賀の里が勝てば豊作である。今年は多賀の里2勝1敗。マジでガチな真剣勝負だった。1勝1敗となった3番目、寿命ケ石が押し倒された土俵の外には、朝まで降り続いた雨が溜まっていた。
 多賀の里が勝利するシナリオは存在しなかった。東が勝つことになっていると思ったことを僕は恥じた。

八岐大蛇、退治記念日

 
 「古例祭」の資料にこんなことが書いてあった。「社伝によると応神天皇の時代(270年)に当社の神主家犬上氏の高井主男枝尊(たかいぬしおぎのみこと)と都恵神社の神守事主美尊(ことぬしみのみこと)が、力を合わせて伊吹山の八岐大蛇(素箋鳴尊に討たれた八岐大蛇の子孫とも)を退治した日が9月9日だったので、その古事を偲んで相撲をとる」。
 「古知古知」とは「古い出来事を偲ぶ」という意味である。
 重陽の節句は縁起がよいという理由で9月9日に「古例祭」が行われるのではない。その日は八岐大蛇を退治した記念日、この日を偲ぶための相撲だったのだ。
 推古天皇の時代に第1回の遣隋使(600年)が派遣されている。応神天皇の時代はまだ日出ずる国は中国の影響を受けていなかったということでもある。

伊吹の神

 『古事記』は712年、『日本書紀』は720年の成立である。ヤマトタケルはどちらにも登場する英雄だ。『古事記』では倭建命、『日本書紀』では日本武尊と記されている。ヤマトタケルは、景行天皇の命を受けて、荒ぶる神々を全戦全勝で打ち破ったが、唯一伊吹山の神に敗れ命を落とした。伊吹山の神は『古事記』では「白き猪」、『日本書紀』には「大蛇」、近江の地誌『淡海木間攫』や『淡海温故録』には「八岐大蛇」と記されている。
 荒ぶる神とは、天皇の支配に服さない神のことである。伊吹山の神こそ日本最強だったわけだ。
 平安時代中期、京の都を恐怖に陥れた「酒呑童子」は一条天皇の命を受けた源頼光らによって討伐された。僕は伊吹山の神の血を受け継いだ酒呑童子を討つことで、朝廷はようやく神代のリベンジを果たしたのだと思っていた。

 景行天皇は、第12代天皇
 応神天皇は、第15代天皇
 一条天皇は、第66代天皇

 つまり、景行天皇の代で平定できなかった伊吹の神を、応神天皇の代で打ち負かし全土を掌握。そして一条天皇の代で残党狩りを完了したということになるのだろうか。
 伊吹山の神が何時敗れたのか判らなかったが、「古知古知相撲」でスッキリした。素箋鳴尊に討たれた八岐大蛇と伊吹の神の関係もそのうち理解できるだろうと思っている。

 

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