淡海の妖怪

妖怪退治とご先祖・下「水犀」

このエントリーをはてなブックマークに追加 地域: 東近江市 2020年11月24日更新

春日神社 春祭り(オコナイ)の神饌(© Masaki Sugihara)

 三上山の百足退治や平将門討伐で知られる藤原秀郷(俵藤太)を始祖に仰ぐ武家は多い。妖怪や怨霊退治の英雄をご先祖にというのはよくある話なのかもしれないと、「妖怪退治とご先祖・上」で書いた。今回は水犀(すいさい:東近江市)を退治した「鯰餌源四郎貞平」の話である。

  広辞苑に「犀」は「ウマ目サイ科の哺乳類の総称」とある。動物園で観ることができるあのサイのことだ。幻獣、或いは妖怪である「犀獣」は平安後期から鎌倉前期にかけて制作された絵巻「鳥獣人物戯画」や「北斎漫画」に描かれている。「水犀(すいさい・みずさい)」という名を持つ架空の生き物である。フォルムはサイに似ているが、馬や牛のような身体で背中には亀の甲羅があり額に角を持っている。「鳥獣人物戯画」では波間に描かれ明らかに水棲の生き物であることがわかる。描かれた水犀は、キャラクター商品になりそうな感じだ。

 「鯰餌源四郎貞平」は日本で唯一、水犀と戦った人物である(僕は他に水犀と戦った人物を知らない)。
 平安時代、醍醐天皇が竹生島に参詣するため薩摩浦の辺りまで来られたとき、俄かに暴風が襲い航行が危うくなった。船頭は「日頃この付近に悪獣あり、名をサイ(原文は平仮名)といい、御船を犯さんとするので、餌を与えるか退治するかせられたい」と奉奏した。天皇は庶民の為に退治することを決心し、「鯰餌源四郎貞平」を召して名剣「篁重国(たかむらしげくに)」を与えサイ退治を命じた。
 貞平は御剣を脇にはさみ、腰に縄をまとい水中に入った。戦いは数刻に及んだが勝敗決せず、一旦引きあげて後、第二戦で遂にサイに縄をかけて浮上した。これにより、貞平は天皇より「鯰江犀之助」の名を賜わり、鯰餌姓を鯰江と改めた。貞平の武名は遠方まで響いたという。
 後に貞平は仏門に入り、天照皇太神、春日大明神、八幡大菩薩の御託宣を受け、社を建てたのが春日神社(東近江市妹町)のはじまりである。貞平は76歳で他界し、朝廷はいたく哀惜しその功をたたえたという(『昔ばなし 愛東町』1979年 要約)。
 春日神社の由緒(滋賀県神社庁)によれば「聖武天皇の御代鯰江源四郎貞実鯰江に封ぜられ、その孫貞平が平城天皇の勅命を承けて大同4年に春日大神を勧請して社殿を創建したと伝えられている。その後4村に分離することもあったが、鯰江忠夫本殿を再建し、大正3年現在地に移転した」とある。
 サイを退治した貞平の英雄譚は、戦乱を生き抜き織田信長に最期まで抗した鯰江氏の始祖の物語であり、春日神社の始まりの話だったのだ。現在行われている春祭り(オコナイ)の神饌(干柿と勝栗を割り竹につきさしたもの)は、貞平の出陣を祝った儀式の名残りなのだという。

 藤原秀郷と百足、藤原秀郷と平将門、更に遡れば、源頼光と酒呑童子、坂上田村麻呂と大嶽丸、ヤマトタケルと伊吹山の白い猪……。英雄は朝廷側の人物であり、退治される妖怪は権力に抗した神々や一族である。薩摩浦で悪獣とされたサイはどのような一族だったのだろう。
 鯰餌源四郎貞平のサイとの戦いぶりからすると、名剣「篁重国」を使わず、持久戦の末に捕縛している。そして、天皇より「鯰江犀之助」の名を賜わっていることからも、「犀」は、誰もが知る操船技術に優れた誇り高き一族だったに違いない。

 

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