妖怪退治とご先祖・上
10月14日、彦根商工会議所が主催する彦根ヒストリア講座の「蒲生氏郷の章」に参加した。氏郷(1556~1595)は、近江日野出身の戦国武将である。祖父は蒲生定秀、父は蒲生賢秀、近江守護六角氏の重臣だった。あまり注目してこなかったので興味深かった。そのなかでも「藤原秀郷(俵藤太)の子孫とされ、龍神が秀郷に贈った十品のうちの『早小鍋』が伝来した(※南北朝時代以前の先祖は確実な史料がなく、実態は不明)」という話は淡海妖怪学波にとっては、最重要事項だった。
「龍神が秀郷に贈った十品」、「早小鍋」は、『三上山の百足退治』にでてくる宝物である。
三上山(野洲市)は、別名「近江富士」と呼ばれる美しい稜線の山だ。平安時代、この山を七巻半する大百足(おおむかで)が棲み、野山の生き物、湖の魚を食い荒らしていた。退治したのは、「打物(打ち鍛えて作った武器。刀剣・槍など)を取っても、弓を引くにも、肩を並ぶべき輩もなし」といわれた藤原秀郷である。
承平年間(10世紀前半)、秀郷は勢多(瀬田)の唐橋で琵琶湖の龍神に武勇を見込まれ、「三上山に巣くう百足を退治して欲しい」と頼まれた。早速、弓と矢を3本持ち、勢多の浜から三上山に向かい待ち構えると、辺りが一変した。比良の高嶺の方より松明二三千余り、三上山の方から響く百千万の雷電は、山を動かすほどだった。そして、いよいよ姿を現した大百足の眉間の真中を狙い矢を射るが、2本とも鉄のように硬い身体にはじき返されてしまった。秀郷は最後の矢をつがえる前に矢先を口に含み唾をつけた。渾身の力で射たその矢は眉間に深く刺さり大百足は息絶えた。
秀郷はその功により、裁てども裁てども尽きない「巻絹」二つ・取り出しても取り出しても米が尽きない「首結ふたる俵」・思うままの食物がわき出る「赤銅の鍋」を龍神より賜る。更に後日、龍宮に招かれ、金作りの剣・黄金札の鎧・赤銅の釣鐘を授かった。この釣鐘は三井寺に寄進され初代の梵鐘となり、藤原秀郷は、尽きることのない俵から「俵藤太」とも呼ばれるようになった。
『太平記』には、龍神が秀郷に、太刀・巻絹・鎧・俵・鐘の五品を与えたとある。寛永10年頃筆せられた『氏郷記』には十種を挙げ、鍋を「早小鍋」としている。少しの間で煮える鍋である。後に、この鍋の底が抜けて、その破片が蒲生家に伝わる。思うままの食物がわき出る「赤銅の鍋」のことに違いない。
少し前、DADAジャーナルに古楽さんが連載する『ふることふみ55回」に、宇曽川流域の広い地域を支配した「高野瀬氏」について「平将門の首が落ちた歌詰橋に近い地域を治め東山道の下枝に関所を作って関銭50文(通行料約500円)を徴収していたのが高野瀬氏だった。佐々木氏の末裔、または藤原秀郷の末裔とされている一族が現在の豊郷町高野瀬に館を構えて高野瀬氏を名乗る」と書かれていた。
ここでも、ご先祖に「藤原秀郷」が登場するのである。
歌詰橋は、中山道(東山道)の豊郷町と愛荘町の境に流れる宇曽川に架かっている。「平将門の首」の伝説は、「平将門の首級を挙げた秀郷が、京に上るために東山道のこの橋まできたとき、目を開いた将門の首が追いかけてきたため、将門の首に対して歌を一首と歌合戦を仕掛けたところ、将門の首は歌に詰まり、橋上に落ちた。以来、村人はこの橋を歌詰橋と呼ぶようになった」というものだ。
妖怪や怨霊退治の英雄をご先祖に! 案外、よくある話なのかもしれない。