「蚊の精」と「蛟(みずち)」 1
夏は蚊の季節である。今年はコロナ禍と酷暑でクーラーをかけた部屋で巣籠もりという塩梅だから、例年に比べると虫刺されの薬の世話になることも少ないように思う。
狂言『蚊相撲』に登場する「蚊の精」は江州守山出身、立派な淡海の妖怪である。アニメ『犬夜叉』(高橋留美子作)に登場する、蚤の妖怪「冥加」のように危険が迫ると真っ先に逃げ出す臆病者ではない。同じ吸血妖怪でも、蚊の精は「この頃都には相撲がはやると申すによって、其(それがし)も相撲取となり人間に近付き、思ふままに血を吸はうと存ずる」と野望をもっている。
この「蚊の精」について調べていたら、「蛟(みずち)」も淡海にいたことが判った。
まず、簡単に蚊の精について書いておく。
狂言『蚊相撲』では、大名と蚊の精が相撲を取る。相手が蚊の精とは知らない大名は、四つに組もうとすると身をかわされ、羽で隠したくちで血を吸われ、くらくらと目を回す。蝶のように舞い、蜂のように刺すような見事な取り口である。
大名が「彼奴(きやつ)の国は何処とやら」と尋ねると、太郎冠者は「江州守山ぢゃ、と申してでござる」という。「江州守山は蚊所で、昔も人ほどの蚊が出て人間に近付き血を吸うたと聞いたが。ハハア、さては彼奴は蚊の精であらう」「総じて蚊といふものは風を嫌ふものぢゃによって、この度は汝精を出いて扇げ」と太郎冠者に命じて反撃にでる。
勝敗の行方はさておき、面白いのは「江州守山」と聞いただけで「蚊所」「蚊の精」と思い至るところである。
彦根も昭和20年代後半まで、「彦根名物マラリア」といわれるほど蚊の多い地域だったように、狂言を観る誰もが、守山が「蚊所」、つまり「蚊の名所」なのだと知っていたということなのだ。
肥前平戸藩の第9代藩主 松浦静山(まつらせいざん)は、江戸時代後期の随筆家でもある。諸国の異聞奇聞を集めた『甲子夜話』(かっしやわ)に、「予先年の旅行に守山の駅に宿したりしに、其家の障子襖などに蚊夥しくとりつき居るに、その形、殊に大にして蝶ほどなり。足もまた長し。然れば狂言『蚊相撲』を作りし頃も、古より守山は蚊の大なる所となり来(きた)りしゆえ、そのことを取り用ひたるなるべし」とリアルな体験を記している。静山は「古より守山は蚊の大なる所」で、狂言『蚊相撲』の一番もこのことに着想を得たのだと考えたようだ。狂言は人(この世)と人在らざる者(異界)が交わる場所でもある。ちなみに10月4日、滋賀県立芸術劇場びわ湖ホールで「野村万作・野村萬斎狂言公演」が予定され、『蚊相撲』が演目のひとつになっている。淡海の妖怪に出会うのが楽しみだ。
さて、「蛟(みずち)」である。滋賀県立図書館や彦根市立図書館で「蚊の精」について調べているとき、『中仙道守山宿』(宇野宗佑著、青蛙房)という書籍を手にした。「蚊と蛟」について記されており、おおいに参考となった。
そして、「安永四年乙未(きのとひつじ)の夏、六月二十六日、近江国野洲郡石田村溝渠中ニ物有リテ半身ヲ出ス、猫面蛇身(びょうめんじゃしん)、耳有リ、髭有リテ角(つの)無シ。頷下(がんか)ニ物垂レ纓(よう)ニ似タリ」という蛟についての記述を見つけた。
猫面蛇身! 実に面白い(次回につづく)。
参考
- 日本古典文学全集『狂言集』(小学館)