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淡海の妖怪

怪牛と隻眼の童子

このエントリーをはてなブックマークに追加 地域: 彦根市 地域: 東近江市 2018年12月25日更新

 本年最後の淡海の妖怪は「怪牛」。隻眼の童子と共に語り継がれている。怪牛の話をする前に、彦根の「一つ目小僧」について触れておきたい。
 『高橋敬吉 彦根藩士族の歳時記』(藤野滋編・サンライズ出版)という本がある。彦根藩士族の家に生まれ井伊家家庭教師となった高橋敬吉が大人になるまで彦根で暮らした明治10〜20年代の風俗習慣など様々な記憶が綴られている。
 「一つ目小僧」は観音堂筋に現れる妖怪で、「一ツ目小僧が徳利さげて酒買いに」と書いてある。先月号で紹介した「魑魅(ちみ)」「聞鼻(かぐはな)」などの鬼も高橋敬吉の記憶だ。近代化が進み科学万能の時代を突き進む日本においても、この頃までは妖怪の類いは城下町の暮らしのなかで語り継がれていたのだ。
 観音堂筋は、現在の北野寺(彦根市馬場一丁目)の前、かつての内堀沿いの道だ。何故、彦根の観音堂筋に一つ目小僧が出没したのか……、気になるのである。
 「乕徹淬刀水」(こてつさいとうすい)という井戸が今も遺っている。乕徹は、江戸初期の有名な刀鍛冶、長曽根虎徹のことだ。伝承には甲冑師だった虎徹が刀鍛冶に転向する際、長曽根一族縁の地で修業に打ち込んだとある。
 石田三成が佐和山城主だった頃、麓の石ヶ崎(現在の大洞付近)に石田氏の御用を務める鍛冶が13軒あった。虎徹の父もそのひとりだった。関ヶ原の合戦後、彦根の城下町の町割が行われた際、換地として与えられたのが、現在の城町二丁目の辺りだ。藩政時代の町名は石ヶ崎。佐和山の麓から移り住んだ人々の町だった。長曽根一族はこの換地を不満に思い越前に移り住んだという。北野寺は城町二丁目と接し、「乕徹淬刀水」の井戸まで2〜300メートルのところにある。
 一つ目小僧は、鍛冶神「天目一箇神(あめのまひとつのかみ)」に由来するといわれている。また、鍛冶は炎を見続け、鍛錬の火花が目に入ることもあり失明することも多い。一つ目小僧は、製鉄・鍛冶・鉱山・精錬に深い関わりを持つ妖怪なのである。観音堂筋に一つ目小僧が現れるのは納得がいく。湖北には木之本町古橋や川合の「片目の鯉」、木之本地蔵の「片目の蛙」の伝承がある。一つ目であるから何かしら「金偏」に関わっているのではないかと予想している。
 さて、怪牛の話である。
 怪牛は東近江市佐目町に出没した妖怪である。顔は牛で、足は馬、尾の先に剣があり、総身は金針で覆われていたという。威風、俊足、武力、防御とも完璧で、かなり恐ろしく怪しい……。
 現在、佐目町は国道421号線(八風街道)永源寺ダムのトンネルを越えたところにある。氏神は若宮八幡神社で「御金明神(塔尾金神)」が祀られている。ご祭神は金山姫命。鉱山の神、鋳物や刃物の神だ。
 佐目の集落は、もともと佐目子谷がダム湖に注ぐ辺りにあり、湖底に沈んでしまった。佐目子谷はかつて「かねの谷」といった。御金明神の奥の院は、佐目子谷を遡り10キロほどのところに鎮座する(雨乞信仰と密接な関係もあるらしいが、今回は「かね」にこだわる)。
 かねの村が怪牛に襲われたとき、村を救ったのが左目の隻眼の童子であった。童子は川原の石に口から炎を吹きかけ、怪牛に投げつけて追い払った。以来、「かねの谷」を左目の童子にちなみ、「左目童子の谷」、「佐目子谷」と呼んだ。よって「かねの村」は「佐目の村」となる。御金明神が隻眼の童子の姿で現れたと考えたのだろう(或いは化身)。
 実際に鉱山が存在したのかどうかインターネットで検索してみると、佐目子谷の奥には「高昌鉱山があり、銀・銅が採掘され明治末期に最盛期を迎える。1921年頃閉山」、「向山鉱山は滋賀県東近江市(旧・神崎郡永源寺町)にあった鉱山。金・銀・銅が採掘された。1950年代頃に閉山」。また、「『近江輿地誌略』に、佐々木六角氏による白銀探査と発掘が行われていた」などの記述が散見される。永源寺はかつて鉱業が盛んだったのだ。精錬には炭が使われたに違いない。そう考えると、長閑な永源寺の風景が一変する。
 佐目の「隻眼の童子」は「天目一箇神」のような存在だろう。ゴールドラッシュのような時代があり、佐目の村が鉱山関係者を統括した、或いは精錬技術に優れ、一括して請け負うことになったという物語だろうか。謎は、「顔は牛で、足は馬、尾の先に剣があり、総身は金針で覆われている」という怪牛である。何を象徴しているのだろう……。
 この考察は来年に持ち越すとする。皆様よいお年を。

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