淡海の妖怪

高宮寺・天狗の三本杉

このエントリーをはてなブックマークに追加 地域: 彦根市 2018年8月8日更新

 『犬上郡誌・高宮町史』(昭和61年発行 / 犬上郡誌 明治14年刊・高宮町史 昭和33年刊 合本)という書籍がある。高宮寺(こうぐうじ)について調べることがあった。寺は中山道を東へ入った、かつての高宮城の近くに位置している。『高宮寺縁起』によれば、奈良時代に行基僧上と婆羅門僧上が、仏教応化のため当地に伽藍を建立して称讃院と号したのに始まる。天平文化が花開いた時代で、西暦でいえば700年代である。久寿2年(1155)に雷火により焼失。弘安2年(1279)、鎌倉時代中期、時宗の開祖一遍上人が高宮に立ち寄った際、北殿の高宮氏初代宗忠が、一遍の遺徳を仰いで一宇(いちう:一棟の建物)を建立した。高宮氏には2系統あった。鎌倉時代末に地頭として入部した紀州櫟(いちい)氏を祖とする高宮氏が北殿。将軍足利義持から6万貫を与えられて入部した六角氏頼の3男信高を祖とする高宮氏が南殿である。高宮城を居城としたのは南殿の高宮氏だ。
 天正元年(1573)には、高宮城落城に伴って伽藍を焼失。江戸時代に入り、徐々に寺観が整えられて今日に至っている。境内には、彦根藩4代井伊直興が寄進した石造の地蔵菩薩を安置した地蔵堂や、北殿の高宮氏を守護した五社明神社、南殿の高宮氏の墓所などがある。とにかく高宮寺は1200年を越える歴史がある。
 『犬上郡誌・高宮町誌』のグラビアに「高宮寺の三本杉」の写真があり、キャプションに「この梢(こずえ)に天狗がいたという」と記されていた。今まで何度となく参考にしてきた資料だったが、2018年初めて気づいた。何かの予兆だと思い早速出掛け、三本杉の写真を撮った。昭和30年代の写真と雰囲気は変わっている。代替わりしたのだろうが、広い境内の特別な場所という雰囲気が漂っていた。
 「梢」は、樹木の先の部分である。真夏の空にそびえる三本杉の梢に天狗の姿を見るのはそう難しくはないだろう……。

 高宮寺の歴史は古く、奈良時代に行基(668〜749)が、「応化(おうげ)」の霊地を選び伽藍を建立して「称讃院(しょうさんいん)」と号したのが始まりとされている。行基は、東大寺の大仏を造った人物だ。
 鎌倉時代中期、弘安2年(1279)、時宗の開祖一遍智真(1239〜1289)上人が諸国遊行(ゆぎょう)の途中、称讃院で賦算(ふさん)を行った。「遊行」は、僧が各地を巡り歩いて修行または布教すること。「賦算」は、時宗において「南無阿弥陀仏、決定往生六十万人」と記した「念仏札」を配ることをいう。一遍は、踊り念仏でよく知られた人物だ。
 このときの様子が『高宮寺縁起』や『近江国多賀大明神御霊夢常行念仏興行之縁起』に、おおよそ次のように記されている。一遍上人が称讃院で賦算をしていると、ちょうど多賀社の祭礼で神輿が渡御していたところ、何故か称讃院の前で突然動かなくなった。「この辺りに聖がいるから我を結縁させよ」と多賀神の神託があり、一遍上人が十念を唱え、「授阿弥陀仏」の法号を与えると、神輿が再び動きはじめ、無事祭礼を終えることができた。このとき、北殿の高宮氏初代宗忠(むねただ)は、この不思議な出来事に威徳を感じ、一宇(いちう・一棟の建物)を建立する。(北殿の高宮氏に関しては前号DADA660参照)。
 その後、一遍の弟子で後を継ぎ時宗の二祖となった他阿真教(たあしんきょう)の多賀社(現在の多賀大社)参詣を機に、正安元年(1299)、高宮寺は天台宗から時宗に改宗、真教を開基とし、切阿(せつあ)上人を開山とした。「開基」は、寺院または宗派を創立(創建)した人物、「開山」は、初代住職となった僧侶のことである。切阿上人は一遍の弟子のひとりだ。
 他阿真教も多賀社との結縁で、多賀社参詣のとき「南無阿弥陀仏」と「授阿弥陀仏」「成安元年八月日」の文字を鋳た円鏡を内陣におさめ、多賀社では真教に「神明の森」を奉って「遊行の森」といい、一遍をまつる聖宮を建てたと伝わる。当時の日本は、仏・菩薩が衆生を救うために神の姿となって現れるという「本地垂迹(ほんじすいじゃく)」の考え方が一般的だった。一遍は「専ら神明の威を仰ぎ、本地の徳を軽んずるなかれ」と神を仏とともに崇敬すべきことを説いている。多賀神の本地仏は阿弥陀如来であり、高宮寺の山号は「神應山」。神に応える寺という意味になる。この話は、時宗と多賀神との習合を説く縁起とも理解することができる。多賀大社の「神明の森」は杉の森であり、高宮寺の三本杉は多賀の神に応える証のようでもある。

 

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