どち・河太郎
20世紀末、僕らは「淡海妖怪学波」として、妖怪コレクションを始めた。それは現代に誕生した妖怪ではなく、その地域だけに語り継がれる昔話に登場するような古典的妖怪たちである。時々、妖怪のことを思い出してやらないと、絶滅してしまうから…、そんな理由からだった。
過日、「一つ目小僧」の原稿を書く必要があり、『高橋敬吉 彦根藩士族の歳時記』(藤野滋編著・サンライズ出版)を読み返していた。明治時代の彦根の様子が記されており、僕の必読書になっている。この本に「どちや河太郎」と書かれた箇所があった。
「魚釣
春先、水が暖かになるとあちらこちらの城の堀で魚釣が始まる。団庄の店へ行って、一銭に十本の黒い雑魚(ジャコ)針と鉛の沈み、赤と白とに塗った浮標、これは山吹の髓でした事もあった、一丈程の菅(スガ)糸と葦の釣竿の全部を二銭程で求め、早速用意して、飯粒に小糠をまぶした餌を反古紙に包み、一ッかどの大漁をするつもりで大きな重い手桶を提げ、裏から花木の邸を通り抜け、観音堂筋の堀で江坂の家の前から野澤の辺り迄を漁区として雑魚釣を演(ヤ)った。偶(タマ)には遠く高橋から御蔵の辺りまで出かける事もあったが、堀が深いので、はまったらどちや河太郎に引かれて死ぬといって、祖母や母が心配して遠くへ行く事は許されなかったし、又自分でも何だか恐ろしい様な気もした。或る時、不開(アカズ)の橋の辺りまで釣りに出かけたが、あたりがあまりに静かで物凄く、鸊鷉(カイツブリ)が意外の処ヘピョコンと首を出したり沈んだりするのが恐ろしく、逃げて帰った事もあった。」
この文章は、淡海の妖怪に関して二つの大事なことを教えてくれている。
一つは、「どちや河太郎」の出没する場所が「観音堂筋の堀で江坂の家の前から野澤の辺り迄を漁区」「遠く高橋から御蔵の辺り」「不開の橋の辺り」と特定できることである。
観音堂筋が何処の通りなのか、地元の人ならば知っている。そして彦根城博物館が所蔵する『彦根御城下惣絵図』に、高橋家・江坂家・花木家・野沢家、更に「御蔵」の位置が記されている。「不開の橋」と呼ばれるのがどの橋なのかは判らないが、文章に出て来るポイントが高橋家の自宅から離れていく(遠くなっていく)ことから、そしてカイツブリの様子からしてもその橋は現在の松原橋だと考えて間違いないだろう。
彦根城博物館のWebで『彦根御城下惣絵図』が公開されているので、実際に確かめることができ、現在の位置も推測できるだろう。
二つ目は、少なくとも明治時代の彦根では水の中に人を引きずり込む妖怪を「どちや河太郎」と言ったということが明らかになった点である。更に、河太郎はカッパのことだが、彦根藩士の家系ではカッパを「かわたろう」と呼び、「河太郎」という漢字をあてたということも判った。
問題は「どち」である。
「どちや河太郎」という姓名ではない。まして「どちや」という屋号でもない。「どち」はたいていスッポンのことをいう。
『日本妖怪大事典』(村上健司編著)には「岐阜県加茂郡八百津町、郡上郡でいう河童。鼈(スッポン)のようなもので」とある。「どち」もカッパなのだ。河太郎とは異なった形態をしているのだろう。
更に深くを考えてみる。「ミヅチ」「ノヅチ」という名を持つ妖怪がいる。名というよりは妖怪の場合「一族」と言った方がいいかもしれない。山に千年、海に千年住んだ蛇は蛟(ミヅチ)という龍になる。水津霊とも書く。
「ノヅチ」は、姉川上流の昔ばなしに「昔里人が茶を摘んでいると、高い所から槌に口のある怪物が現れ、忽ちにしてその人をかみ殺した」とある。器物妖怪の「野槌」、或いは、水津霊と同じく野津霊と書くのかもしれない。とすれば、「ノヅチ」は野の神の龍とも考えることもできる。「ドチ」も龍の類いの妖怪ではあるまいか…。
今回はここまで。また何か新発見があればDADAで報告することにする。