「肥田城」を含む記事一覧
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2019年12月17日
湖東・湖北 ふることふみ 63
織田信長と浅井長政の同盟 まち・文化織田信長と浅井長政の対面の地・高宮城跡 浅井賢政が元服したとき、六角家重臣平井定武の娘を妻として迎え、六角義賢の一文字を与えられて「賢政」と名乗るようになったが、これは平井家と同じ身分であると国内外に知らしめることでもあった。賢政はこの屈辱に耐えることができずすぐに離縁して反六角の旗を鮮明にしたと言われてい... 続きを読む
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2019年10月16日
湖東・湖北 ふることふみ 61
野良田の戦い(後編) まち・文化宇曽川堤から肥田城址を望む 前回は『浅井三代記』の野良田の戦いを紹介した。今回は『江濃記』を見てみたい。 宇曽川を挟んで対峙した六角・浅井両軍だったが、午前10時頃から浅井軍の百々内蔵助が宇曽川を渡って、六角方の蒲生定秀の手勢と衝突。戦いの決着はすぐには着かなかったが、六角軍の田中冶部大夫・楢崎壱岐守が百... 続きを読む
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2019年9月10日
湖東・湖北 ふることふみ 60
野良田の戦い(中編) まち・文化宇曽川南岸より撮影。奥の山が荒神山 前回は、宇曽川を挟み北に浅井賢政率いる1万弱、南に六角義賢率いる2万5千(それぞれ兵力は諸説有)が布陣したところまで書いた。この先を伝えるものは軍記ばかりであり一級資料ではないためこの先は物語として読んでいただきたいが、その軍記でも『浅井三代記』と『江濃記』では同じ戦いを... 続きを読む
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2019年8月16日
湖東・湖北 ふることふみ 59
野良田の戦い(前編) まち・文化前回まで肥田城水攻めを紹介し、肥田城主高野瀬秀隆が城に籠って六角義賢の攻撃から城を守りきったと紹介した。 しかし、この一度きりの戦いで六角氏の勢力が損なわれたわけではなく、翌永禄3年(1560)に義賢は再び総力を結集して北上を始めた。水攻め時に雨による堤防決壊での撤退を反省したのか梅雨が終わり、台風が襲ってく... 続きを読む
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2019年7月11日
湖東・湖北 ふることふみ 58
肥田城水攻め(後編) まち・文化江戸期の肥田の堤防 高い堤防に囲まれて、水が容赦なく襲いやがて建物の中にいても床下の水に悩まされるようになり櫓などの高い所に人々が集まって外を見ながら怨嗟の声を上げる……。多くの方は水攻めに対しこのようなイメージを持っているのではないだろうか? 関東で唯一であり日本最後の水攻めとなった忍城水攻めを描いた映... 続きを読む
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2019年6月14日
湖東・湖北 ふることふみ 57
肥田城水攻め(中編) まち・文化肥田城水攻め堤防址 永禄2年(1559)4月3日から始まった肥田城水攻めの詳しい経緯を知る手掛かりはほとんど残されていない。数少ない情報から考察すると、堤防を築き宇曽川と愛知川の水を流し込んだ六角軍は城を囲んだまま安食に本陣を置く。そのまま戦いを仕掛けることはなくこう着状態となる。水を留めるということは大き... 続きを読む
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2019年5月10日
湖東・湖北 ふることふみ 56
肥田城水攻め(前編) まち・文化肥田城跡の碑 六角氏と京極氏の境目の城として時には攻撃を受けながらも、高野瀬氏は肥田城で着実に基盤を築いてゆく。そして宇曽川の水運を利用した発展を遂げ肥田城周辺には城下町も形成されていた。 戦国時代、北近江の京極氏は浅井亮政に実権を奪われ保護下に入る。亮政の子久政は六角義賢に従うことで北近江の安定を図り息... 続きを読む
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2019年4月12日
湖東・湖北 ふることふみ 55
高野瀬氏 まち・文化高野瀬城趾の碑(犬上郡豊郷町高野瀬640) 近江は日本史上もっとも長い期間重要な経済大国だった。それは政治の中心が関西であったためであり、その関西圏から東国へ向かう場合には近江を通過しなければならなかったからだ。細かい話は別の機会に紹介するが江戸時代より前は日本の経済の半分は近江を通過している。 その近江... 続きを読む
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2011年3月11日
江展望 2011
江誕生13年前、浅井長政、野良田表の戦いに勝利す まち・文化城壁をイメージしたという「高橋」 国道8号線から聖泉大学方面へ向かう道中に「高橋」がある。欄干の上部が瓦風の造りになっている。橋を管理する県に尋ねると、城壁をイメージしているという。橋を南に渡った肥田町に、かつて肥田城があったことにちなんでいるそうだ。 肥田城は浅井長政にゆかりある城である。 江北を領... 続きを読む