「佐和山」を含む記事一覧

  • 2019年4月2日

    佐和山城址、石田三成公御腰掛け まち・文化

    山城攻略 佐和山山頂、御腰掛け設置 清凉寺、御腰掛け設置  佐和山城最後の城主は誰か? 石田三成と答えたいところだが、井伊直政である。関ヶ原合戦の後、慶長6年(1601)1月、井伊直政は徳川家康より佐和山城を賜り、3月には佐和山城に入った。翌年2月1日、合戦で受けた鉄砲傷が悪化し、佐和山城中で...  続きを読む

  • 2018年11月9日

    ベニチャワンタケ まち・文化

     雨が降った日、濃い金木犀の香りがした。今年はその一日だけの経験だった。外に出ていない証拠のようなものかもしれない。二週連続で大きな台風がやってきたせいかもしれない。城山の木々が倒れ、神社の神木も痛々しいままだ。佐和山にも登った。ベニチャワンタケが妙に目に付いた(ベニチャワンタケモドキかもしれない)。枯れ枝のその...  続きを読む

  • 2014年9月24日

    戦国の風雲児 織田信長。近江の地をいかに駆け抜けたか! まち・文化

     信長が天下統一を目指す道のりの中で、岐阜へも半日、京都へも半日で行けるという好立地であることから安土に城を築いたといわれている。その信長が近江で最初に拠点を置いたのが佐和山城、さらに佐和山・安土の中継点として、機能したのが山崎山城である。現在の彦根市の北から南に縦断して信長は天下統一への道を駆け上がっていった...  続きを読む

  • 2012年12月31日

    2012年、解けない謎はない!? まち・文化

     2012年は「龍」の年だった。解けない謎はないはずなのだが、どうしても解らない龍がいる。「紫鱗龍王」。昨年の年末からこの龍のことが解ったら記事にしようと思っていたが、遂に、師走最終号で音をあげることにする。と同時にそもそもそう簡単に解るようでは謎でもなんでもないのだとうそぶくのも忘れない。「紫鱗龍王」は、解けな...  続きを読む

  • 2012年6月20日

    隧道と村田鶴 佐和山隧道 まち・文化

    佐和山町側から撮影  湖東・湖北に大正時代から昭和初期にかけて竣工したいくつかの隧道(ずいどう・すいどう )がある。「隧道」とは、トンネルの古い呼び方だそうだ。湖東・湖北の隧道のいくつかは、美しい意匠を持ち、設計者は「村田鶴(むらたつる)」という人物だった。前回、横山隧道(長浜市鳥羽上町/米原市菅江)の記事を...  続きを読む

  • 2011年3月27日

    三成の気持ち まち・文化
    夢京橋あかり館企画展示 MITSUNARI 11

     気になるイベントがある。「三成イレブン」……よく解らない。ホームページに、主催者の次のようなメッセージがあった。  「MITSUNARI 11」の展示イベントについては、開催を自粛すべきとの意見も多数ありましたが、検討を重ねたうえ、予定通り開催することにいたしました。  三成の気持ちは、「大一大万大吉」の旗印に象...  続きを読む

  • 2010年12月10日

    レキジョのための基礎知識 4
    龍潭寺に遺る佐和山の記憶 まち・文化

    城内の屋敷にあったと伝わる板戸  戦国ブームの影響もあって、石田三成の居城であった佐和山城跡へ登る人が増えている。山を挟んで西からのルートの入口にあたるのが龍潭寺である。関ヶ原合戦の功労により佐和山城を与えられた井伊直政が、現在の静岡県浜松市にある井伊家始祖・共保(ともやす)以来の同名の菩提寺を分寺し開いた、臨...  続きを読む

  • 2010年1月26日

    始まりは母の本棚から…… ひと
    佐和山城郭研究会代表 田附清子さん

    田附清子さん。DADA編集室にて。携帯電話には石田三成の旗印「大一大万大吉」のシールが貼ってある。  石田三成に恋をした女性に会った。恋したというより愛したと言った方が正しいかもしれない。そして、その恋も愛も現在進行形である。毎年元旦の朝、田附清子(たづけすがこ)さんは家族と共に佐和山に登る。佐和山城郭研究会代...  続きを読む

  • 2009年10月11日

    佐和山城天守の行方 ひと
    城郭研究家 長谷川博美さん

    「澤山城図」滋賀県犬上郡多賀町多賀大社蔵「多賀大社社頭絵図」(写真提供 長浜市長浜城歴史博物館) 佐和山城遺跡出土 焼印木片(写真・説明 長谷川博美) 彦根城天守木材に墨書された「チキリ」符牒と同種と思われる「チキリ」紋様の焼印のある木片が、佐和山城遺跡の土中より発掘されて、発掘現場事務所のトレーの中に...  続きを読む