世界初の自転車 陸船車 vs 新製陸舟奔車

このエントリーをはてなブックマークに追加 地域: 2020年4月29日更新

新製陸舟奔車は2003年に復元され、現在彦根市立図書館の所蔵物として彦根市民会館に保管されている。

 先月、3月19日付の朝日新聞に「『最古の自転車』復元 世界へ発信のチャンス」という記事があった。木製の船のような見た目だが、足踏みで歯車を回して車輪を駆動させる仕組みで「陸船車」という。享保14年(1729)、武州北堀村(埼玉県本庄市北堀)の庄田門弥が発明したものだ。東京オリンピックの聖火リレーで「陸船車」を復元し、車体の後方にトーチを挿して走らせる計画だと報じていた。
 世界最古の自転車といわれるドライジーネは1818年の発明。2つの車輪を一直線に並べ、ハンドルを付け、それにまたがり、足で地面をけって走った。 ペダルが付いたのは1861年。ミショー型と呼ばれ日本へは明治初期に紹介された。確かにヨーロッパの自転車の発明よりもおおよそ100年早い。
 「最古の自転車」は、彦根藩士の平石久平次時光(1696〜1771)が発明した「新製陸舟奔車(しんせいりくしゅうほんしゃ)」だと僕は信じていた。
 平石は、『新製陸舟奔車之記』を記し、享保17年(1732)、時速3里半(13㎞)、坂でも登る「自走車」を試作し、走行に成功しているではないか!!
 平石の「陸舟奔車」は庄田の「陸船車」発明より3年の遅れをとっている。『新修彦根市史 第二巻』に「武蔵国児玉郡北堀村(現埼玉県本庄市)の百姓門弥が陸を走る船「陸船車」をつくったという噂を聞き、享保十七年に制作したという」と記されていた。

平石の遺書が納められた「三重の鉄塔」 (長松院提供)

 最古の自転車は「陸船車」なのだろうか……。
 この疑問を解消してくれたのは「Critical Cycling」というウェブサイトに掲載された一文だった。「新製陸舟奔車之記には、先立つ1729年に製作された四輪の千里車、それを改良した三輪の陸船車の概要が記載されている(中略)これらの評判を聞いた久平次は、実物を見る機会がないまま、独自の創意工夫で新製陸舟奔車を完成させたと言う。千里車と陸船車は、小型の水車に似た歯車を足で踏んで推進力を得る。これに対して新製陸舟奔車はクランク・ペダル方式であり、効率化と小型化に貢献した。また、千里車は方向転換ができなかったが、陸船車はハンドルを備え、新製陸舟奔車に引き継がれている」。
 つまり、平石が独自に考えたクランクとペダルを実装した「新製陸舟奔車」こそが世界初の自転車なのである。僕はそう納得した。

三重の鉄塔台座。本堂右に平石久平次の墓がある。  

 平石は、明和8年(1771)8月、76歳でこの世を去った。平石弥右衛門は、父・久平次の業績を子孫に伝えるため、長松院(彦根市中央町)境内に三重の鉄塔(約8m)を建立し、平石の遺書(医術・軍学書・七曜暦・月蝕の算出法・柔術書・馬術書など376冊、また藩の記録・奉行所の記録など148冊)及び平石家役向の記録文書などを納めた。現代でいうタイムカプセルである。
 大正3年(1914)、平石重章は祖先の業績を広く世に伝えようと開扉し、大部分を横浜に持ち帰ったが、大正12年(1923)関東大震災にあい、その大部分を焼失する。
 昭和8年(1933)彦根町史編纂委員の要請により鉄塔を再び開扉、その残りを彦根市立図書館で目録を作成・整理したものが 「平石家文書」 である。三重の鉄塔は第二次世界大戦中に供出され、御影石の台座のみ長松院境内に今も遺されている。

小太郎

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