久し振りの竹生島文様

石頭山 千手寺

このエントリーをはてなブックマークに追加 地域: 彦根市 2020年3月25日更新

千手寺境内

 謡曲『竹生島』に「緑樹影沈んで 魚木に登る気色あり 月海上に浮かんでは 兎も波を奔(はし)るか 面白の島の景色や」と謡われている。日本の「波うさぎ」「波とうさぎ」「波にうさぎ」「波のりうさぎ」などと呼ばれる文様は、別名を「竹生島文様」という。僕は淡海発祥だと信じて疑わない。淡海の竹生島文様をコレクションし始めて30年近くになるが、今年2月末、荒神山の南麓にある「千手寺」で、久し振りに美しい「竹生島文様」に出会うことができた。

 千手寺には、車で近くまでアプローチできるが、麓から登るのをお薦めする。麓の総門から200段ほどの石段の途中には、磨崖仏の地蔵菩薩がある。亀裂が入り痛ましい姿ではあるが、身代わりになってくださるのだと言い伝えている。石段を登りつめると、堅牢な石垣に囲まれた寺の屋根が閑寂な杉林のなかに見えてくる。山の斜面を切り拓いたのだろう、細長い境内は世間とは別の時間を過ごしているかのようである。

参道途中の磨崖仏

 あまり知られてはいないが、俳人・森川許六の弟子冶天(やてん)は千手寺に眠っている。冶天は森野宗兵衛冨秋といい彦根藩の藩医であった。許六より『秘伝書』を相伝し彦根蕉門の道統(学問・芸などの道を伝える系統)を継承し、芭蕉三世を称したという。
 千手寺の歴史は奈良時代にまで遡る。開基は東大寺の盧舎那仏像(奈良の大仏)造立の責任者に任ぜられた行基である。開基当時は華厳宗(東大寺が総本山)寺院だったが、平安時代には天台宗となり、天正年間(1570年代)織田信長の兵火に罹り堂宇を焼失している。江戸時代、正保年間(1644〜1647)雲居希膺(うんごきよう)禅師の法嗣(ほうし:師から仏法の奥義を受け継いだ者)實酬士恩(じつしゅうしおん)禅師によって中興され、臨済宗となった。雲居希膺禅師は伊達政宗・忠宗の仙台藩主の要請を受け寛永13年(1636)松島瑞巌寺を再興し、その後、正保元年(1644)に岐阜の瑞龍寺、滋賀の永源寺・石馬寺を訪れ、翌正保2年には京都妙心寺の再住(今日の管長級に相当)となった人物である。

竹生島文様

 千手寺本堂は慶安5年(1652)に再建され、現在の方丈形式の本堂は宝暦4年(1754)に建立された。観音堂は、棟札によると寛文6年(1666)の建立、享保20年(1735)に補修されている。
 観音堂の厨子には木造千手観音菩薩立像(平安時代後期)、脇侍の木造毘沙門天立像(室町時代)、木造不動明王立像(室町時代)が納められている。この厨子の側面に「竹生島文様」があり、左右2羽のうさぎが波を奔っていた。僕は別件の取材で寺を訪れていた。撮影機材を持っておらず、薄暗い本堂での撮影は困難だった(それでも撮った)。日を改めて、撮影させていただくことを約束した。待ち遠しくてならない。   

 千手寺の瓦に2つ「波うさぎ」の文様があった。冒頭で、「波うさぎ」の別名を「竹生島文様」と書いたが、実際は全く異なるものだと考えている。この話はいずれまた……。

風伯

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