山内さんの 愛おしいもの・コト・昔語り 「そばの話エトセトラ」

このエントリーをはてなブックマークに追加 地域: 長浜市 2020年2月18日更新

赤く見えるのは未熟なそばの実で、完熟すると黒くなる。ちなみに花は白色(伊吹山文化資料館 提供)

 ご縁があって、長浜市木之本町古橋にお住まいの山内喜平さん(92)和子さん(92)ご夫妻にお会いしてお話を聞き色々教わっている。ふと耳にする山内さんのお話が面白い。今回は「そばの話エトセトラ」。
 前回、喜平さんから「20代のころからそば打ちをしてたんやで」と聞いたところまでを書いた。そのきっかけがまた、興味深い。
 昭和23年、21歳の喜平さんは、「男のロマン」を特集した本を読んだ。本には、フライパンの扱いとそば打ちが紹介されていた。「そば打ちならできる!」と男のロマンを追い求めることをそば打ちに定めた。「やっと戦争が終わって、好きなことができる、晴れやかな思いもあったと思う」と思い出してくださった。
 戦後わずか3年でそのような本が出版されていたこと、まだまだ若い喜平さんがその本を手に取り、「これがロマン!」と思ったこと、すべてがびっくりだ。
 当時、そばの打ち方を知る教本もなければ、そば粉も道具類も市販されてなどいなかった。「そば粉が欲しかったら、農家やで自分で育てたらええ」と、そばの種を取り寄せることから始まった男のロマン・そば打ちは、品種や栽培方法、粉の挽き方、そば粉とつなぎの配分など、ありとあらゆることの研究と実証の繰り返しだった。
 そば粉は水を加えて練ったらいいと直感で思ったが、最初の5年くらいは麺にはならず、出来損ないのそばでも家族は文句も言わずに食べた。山芋をつなぎに使うと良いとお母さまが近所の人に教わってきたときは、山芋がないので卵白を使ってみたりもした。試したことも色々なら、昭和30年ごろに買った粉砕機は月給の2倍以上の値段だったこと、中国から韃靼(だったん)そばの種を買い求めた際には、種の中にたくさんごみが混じっていたことなど、喜平さんのそばの話は枚挙にいとまがない。
 喜平さんは、平成19年から約10年間、伊吹山文化資料館(米原市)が開く講座で子どもらに伊吹大根と、伊吹がそばの発祥地だというお話を聞かせ、そば打ちの指導もしてこられた。子どもらはそばの栽培を行っていて、そのそばは喜平さんが種を分けてあげた「信州大そば」という品種の突然変異種なのだとか。白い花が咲き、実を付けるころ赤みを帯び、やがて黒くなるそばで、畑の片隅にたった一株あったものから種を増やされた。

そばの実を挽く電動の石臼もお持ちだ

 「粒が大きいので、より分けるのが楽なんや」。子どもらのために、手作業でそばの実の選別をする人を思いやる喜平さんと、そのそばをずっと栽培し続けている講座の担当者。秋、喜平さんが玄関先のプランターで栽培されていたのはそのそばだったと思い当たった。
 もう一つ、喜平さんが最初にそばに興味をひかれたお話も聞いた。
 かつて、飢饉の備えとして各家々では稗、そばをそれぞれ俵に詰めて屋根裏にぶら下げて保管していたそうだ。大正10年ごろ、いつから保管されていたのかわからない俵を開けてみると、稗は経年劣化を起こして真っ黒になり食べられたものではなかったが、そばは食べることができた。「そばは百年たっても食べられる」と、実際にそのそばを粉に挽いてそばを打った親戚のおばさんの話を、小学生の頃にお母さまから聞いたそうだ。
 喜平さんが昭和62年にまとめられた「伊吹そばに関する調査報告書」には、伊吹そばのことに加え、栽培から手打ち技術について記した「そば」と題した別稿もあり、机上の研究だけでなく、そばを育て、粉に挽き、そばを打ったからこそわかることが書かれている。
 ロマンについて「口で説明できるもんではない。何事もとことんやりぬく性分なんや」と言われた。極めたいものを持つことこそがロマンということか……。
 初めて喜平さんに出会った日、てんぷらそばをご馳走になったが、もっともっと味わって食べておけばよかったと思う。

光流

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