湖東・湖北 ふることふみ 63
織田信長と浅井長政の同盟

このエントリーをはてなブックマークに追加 地域: 彦根市 2019年12月17日更新

織田信長と浅井長政の対面の地・高宮城跡

 浅井賢政が元服したとき、六角家重臣平井定武の娘を妻として迎え、六角義賢の一文字を与えられて「賢政」と名乗るようになったが、これは平井家と同じ身分であると国内外に知らしめることでもあった。賢政はこの屈辱に耐えることができずすぐに離縁して反六角の旗を鮮明にしたと言われている。それが度重なる戦の勝利により六角家から完全な独立を果たし「賢」の名を捨てて「長政」と改名した。この改名の正確な時期は分かっておらず、「長」の字は織田信長に影響されて名乗ったという説が当たり前のように語られたりもしている。
 しかし、浅井家は北近江の守護大名京極家を支援する国人領主の一人であり、平井家と同等の身分だった。長政の祖父亮政が小谷城という堅固な山城を築城し京極家を保護し手中に納めてはいたが、建前上の北近江領主は京極家だったのだ。つまり肥田城水攻めや野良田の戦いは、表面上は六角家と京極家の守護大名同士の戦いであり浅井家は京極家の武将として軍の差配を預かったということになる。肥田城水攻めの前に、肥田城主高野瀬家らの国人領主が初陣前の浅井賢政に味方したことを疑問に感じていたが、浅井家にではなく京極家に期待するところがあったのかもしれない。
 賢政がこれに応えその勢いのまま成長し「長政」と改名して六角家だけではなく京極家からの独立をも宣言したこととなる。これにいち早く注目したのが織田信長だった。美濃斎藤家という共通の敵を持つ両家の縁を繋ぐために信長は妹お市を長政の後妻にと申し入れた。長政もこれを受け入れ両家の婚姻による同盟が成立する。この同盟も詳しい時期は不明だが信長が美濃を制した永禄10年(1567)までにあったとされている。
 翌永禄11年9月8日、信長が高宮城で長政と対面、これ以降は高宮城や佐和山城を信長がよく利用することとなる信長は次期将軍候補として迎えた足利義昭を擁立して上洛するために、長政の協力が必要であり、信長の要請に反発した六角家と戦うためのキーパーソンでもあった。
 長政という妹婿を得て、信長は西に向かって快進撃を続けた。しかしこれは浅井家にとって決して喜ばしいことばかりではない。信長の勢力圏が西に広がると、いずれ浅井領が信長に囲まれることになる。その上でいつ信長に攻め込まれるかもわからないのが戦国の世であった。この危機感は長政にくすぶり続けたのではないかと考える。
 この反面、信長は人を信じると一途な性格であり、この時期に今川家や武田家に対する東の壁でしかなかった徳川家康以上に信頼された信長の同盟者が長政だった。家康が信長の本当の同盟者になるのは長政が信長を裏切った『金ヶ崎の退き口』以降であると言っても過言ではないのだ。そんな浅井家の興亡もいずれ機会を見て紹介してゆこうと思う。

編集部

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