山内さんの 愛おしいもの・コト・昔語り「山の払い下げ運動」その2

このエントリーをはてなブックマークに追加 地域: 長浜市 2019年12月13日更新


山の払い下げ運動に尽力した役員。右端が喜平さんの祖父・喜六さん。背後には「国有林下戻勝訴」の文字が読める。(写真修復協力 辻村写真事務所)

 ご縁があって、長浜市木之本町古橋にお住まいの山内喜平さん(92)和子さん(92)ご夫妻にお会いしてお話を聞き色々教わっている。ふと耳にする山内さんのお話が面白い。今回も「山の払い下げ運動」。
 前回、明治時代の神仏分離令に端を発した山の払い下げが、古橋では大正4年にかなったところまでを書いた。
 払い下げを粘り強く成し遂げた4人の役員の一人だった喜平さんの祖父・喜六さんについて、「役員に指名されたのは、それなりの人だったのでしょ?」と尋ねると、「裁判やらをするとなると金が要る。『身上(しんしょう)持ち』でないとアカンわな」と喜平さん。
 身上とは田・畑などの土地や山など不動産を指し、「身上持ちとお金持ちとは違う」のだそうだが、訴訟のため、持ち山などを売られたそうだ。
 「山へ行くと、ここもあそこもうちの山やった、田んぼもほうやったと父親から聞かされた」と言われる。おそらく、かさむ費用に払い下げを諦めようとする村人に対して続行を決めた役員たちは、身上を投げ出す覚悟をしていたのだろう。
 お礼に与えられたという仏供谷(ムクダニ)を4人で分けられたが、登記上は鶏足寺領のままで、永代小作権を与えるという内容だそうだ。
 割が合うのか合わないのかと思うが、喜平さんは「山は損得勘定をするもんではない」と、当時、喜六さんが手放した土地のことを悔やむでもなく、山の払い下げを成し遂げたことを誇らしく思っておられる。
 大正4年7月、喜六さんは42歳で生涯を閉じる。当時としても早すぎる死に対して「元々、病弱やったと聞いています」と言われるが、役員を務めた期間は約10年間。訴訟のご苦労が寿命を縮めたのだろう。4人の役員の内、2軒の家は絶えてしまったが、この訴訟のためだったようだ。
 訴訟が終わった祝いにと撮影した写真は、喜六さんが写るたった一枚の写真となった。「よく残っていました」と喜六さんに出会えたことが嬉しそうだった。喜平さんにとっては顔も知らない祖父なのだ。
 喜六さんが亡くなり、残されたのは喜平さんの父喜四郎さん17歳と8歳の弟さん。すでにお母さまも亡く、二人きりに。「親戚が引き取ったりはしなかったのですか」と尋ねると、喜平さんは「ほんな甲斐性のないもんは兄貴ではない」とひと言。
 厳しい経済状態のなか、その年仏供谷の木を炭焼きをする人に売り、昭和19年にも10年契約で山の木を売り、契約が終わった昭和29年には松の木が200本ほど売れた。
 そして昭和50年代が終わるころ、家の新築を考え始めたとき、喜四郎さんは仏供谷の松の木を「親が苦労した木やさかい使こうて欲しい」と言われ、伐り出すのは大変だったが現在の家の一部に使われているのだそうだ。
 喜平さんは、「かつて、山は炭焼きをはじめ、薪や柴などを燃料として利用するだけでなく、販売も行われた。下草を刈って田畑の肥料にもした。また開墾できる場所なら田んぼも作られていた」と話す。昭和30年代からは植林が勧められたが、現在、山を顧みる人は多くはないし、歴史を知る人もいなくなる。
 喜平さんには、嬉しい思い出がある。払い下げになった山は鶏足寺領と古橋領に加え、保延寺山、物部山もあった。40年近くが過ぎ、喜平さんは農業改良普及員として湖北を担当するようになって、地元の人の話を聞きたいと、人が集まりそうな神社やお寺を訪ねるようにしていたそうだ。物部を訪ねた時、お年寄りに「山内さんは古橋の人か?」と尋ねられ、「そうです」と答えると、「古橋の山内さんという人に、昔、山のことで大変世話になった」と言われ、「それは祖父の山内喜六です」と答えると「ほーや、喜六さんという人やった」と感謝の言葉を伝えられたそうだ。
 明治時代の神仏分離令から始まり、国有林のこと、訴訟、古橋が困窮したのは水害だけではなかったこと、何より山が大事だったこと……。いつものように喜平さんのお話は、文字に記された歴史では到底知ることのできない物語だった。       

光流

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