山内さんの 愛おしいもの・コト・昔語り「明治の水害」

このエントリーをはてなブックマークに追加 地域: 長浜市 木之本町 2019年10月11日更新

荒地復旧区割改良工事ノ紀念碑(与志漏神社の境内)

 ご縁があって、長浜市木之本町古橋にお住まいの山内喜平さん(92)和子さん(92)ご夫妻にお会いしてお話を聞き色々教わっている。ふと耳にする山内さんのお話が面白い。今回は「明治の水害」。
 ここ数年、「記録的な豪雨」という言葉をよく耳にする。今夏も豪雨による浸水被害が各地で起こった。古橋は集落の中を大谷川が流れ、大雨が降れば危ないのではと思っていたら、「非公式の記録やけど日雨量で970ミリも降ったことがあるそうや」と喜平さんが話し始めた。古橋の言い伝えとして聞いておられるのは、明治29年9月7日、木之本町の郡役所での日降水量として観測、正式な測候所ではなかったことから、当時、最も多い記録であった760㍉とされたそうだ。喜平さんは、970㍉が正式雨量になると、河川の改修工事などの費用が膨れ上がることから760㍉とされたのではないかと推察している。旧高時町役場に在職中、「正式な観測設備を」と関係機関に働きかけた結果、昭和24年、旧高時小学校に観測施設が設置されたのだという。
 「近江伊香郡史」には、前年の明治28年7月と同29年8月30日から31日、さらに9月6日から7日にかけての水害の記録がある。洪水が起こったのは9月7日の午後2時で、「高時川は2丈2尺増嵩し」と書かれている。2丈2尺は約6.6メートル、降水量の記載はないが、前述の970ミリの雨が降った日だ。伊香郡全体では死者2名、負傷者1名。旧高時村では亡くなった人はなかったが、家の流失や全壊、半壊、道路や橋も被害を受けた。喜平さんは「大谷川もあふれ、ウチの蔵と隣の本家が流されたと聞いています。ここらは水に浸かるんと違うて、流される場所やな」と冷静に話される。
 そして、縁側の方向、家の東を指さし「まっすぐ行くと、ちょっと高こうなったとこがあるやろ、あそこは『高見』と呼ばれる場所で、大雨の時の避難場所や」。流されていく蔵をこの高見から見ていた人が、後に喜平さんに「あのあたりで蔵がゴロンと返って、蔵の中からいろんなものが流失していった」と話してくれたことがあったそうだ。「高見」と呼ばれる避難場所が昔からちゃんとあること、実際に避難された人のお話が伝わっているあたり、〝さすが古橋〟だ。
 喜平さんは、こんな話も思い出された。母・小春さんのお姉さまが水害の年に生まれておられる。生まれたばかりのお姉さまを連れ、外に出ることができなかった母子は、家の中2階にあたる「つし」に上がって過ごされたそうだ。今で言う「垂直避難」もちゃんと行われていたのだ。
 水田も壊滅的な被害を受けた。土が流され、河原状態になった水田は220反ほどもあったと言われる。「石の上に筵やら俵を敷き、その上に土を2寸を目標に入れられたと聞いています」と喜平さん。役員を決め、区割りをし直し、水田の再生に取り組まれたそうだ。
 与志漏神社の境内には水害にまつわる石碑があり、旧字体で書かれているが「荒地復旧区割改良工事ノ紀念」と読むことができる。裏面には明治30年3月起工、35年10月竣工とある。明治28年も大水が出ていることから、8年間もの長きにわたり、米の収穫が落ち込んだことが推察される。神社境内にある薬師堂では毎年9月7日を水害記念日として法要が行われ、水害があったことを後世に伝えているそうだ。
 和子さんは、家を片づけている際に、水害にあった被害報告書の下書きであろう書付を見たことがあると言われる。「鎌が何丁とか書かれてました」。更に、お孫さんが小学校時に書かれた作文に「田んぼで石拾いをした」ことを書いたものもあったそうだ。平成になっても田んぼには石がごろごろしていて、農作業の妨げになっていたのだろう。テレビに映し出される水害の様子、映像からは伝わらないご苦労があることを教えられた。

光流

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