山内さんの愛おしいもの・コト・昔語り「亀山の茶畑」その3

このエントリーをはてなブックマークに追加 地域: 長浜市 2019年9月6日更新

 ご縁があって、長浜市木之本町古橋にお住まいの山内喜平さん(92)和子さん(91)ご夫妻にお会いしてお話を聞き色々教わっている。ふと耳にする山内さんのお話が面白い。今回も亀山の茶畑にまつわるエトセトラ。
 昭和27年、旧高時村では地域振興策として、在来種の茶の実を播き茶畑を整備、製茶工場も作った。喜平さんは、おいしい茶の木を育てたいと信楽町朝宮や茶業試験所などを視察。茶所・政所(現在の東近江市)の茶名人と呼ばれるおじいさんに会って話したことが最も印象深く、心に残っているという。
 茶名人に「茶畑を造られたそうだが、ササを刈る場はあるんか?」と問われ、「茶畑と同じ広さのササを刈る場がなけなあかん」と言われた。「なぜですか?」と聞いても、「先祖代々、ササを木の根元に敷き茶の木を栽培してきた、それを守っているだけ」と無愛想だったそうだ。喜平さんは、木の根元のササが土の湿度と肥料の吸収を一定にするのに役立ち、3年目ごろから腐りはじめ、有機肥料となる。化学肥料と違って悪いモンは一つも残らないと思いあたった。
 「ササが腐ると茶が欲しい成分ができるのですね」と言うと、茶名人は「わかるか」と。更に「製茶の技術がいくら上手でも、もともと茶の葉にないモンは作れん」とも……。
 喜平さんは、肥料などない時代からササには茶の成長や旨味に欠かせない養分があると知っていた先人、それを守り続ける茶名人……、茶葉そのものに旨味がなければ旨い茶にならないというもっともな話に得心したが、古橋では茶の木の世話だけをして農業を成り立たせることは難しくササを育てることまではできなかった。
 現在、亀山の茶畑近くには案内看板が立っていて、「鶏足寺住職新井泰栄氏が(中略)茶を植えることを奨励した」と書かれている。茶畑の事を語るとき、地元の人たちも新井住職の名を必ず口にされる。旧高時村の事業であったと話す喜平さんのお話と違っているような気がしていた。
「新井さんは当時、高時村の村長やったんやで。役場は営利事業ができんさかい、茶工場は農協の持ちもんや。新井さんは農協の組合長も兼務してやはった。新井さんは戦後大阪から戻られた先進気鋭の人で、当時村営で事業を興すことなど考える人もなかったが、当たり前のように事業化を進められたのは都会的なセンスだったと思う」という喜平さんの説明に合点がいった。
 最澄がおよそ1200年前に播いた茶の木を再興するストーリーの立役者は、村長で組合長でもある新井住職だが、その陰に喜平さんの姿があった。もしあの時、県の推奨品種が植えられていたらどうなっていたか……。喜平さんは「地元の茶に対する誇りは勿論あった。県の推奨品種は挿し木で増やした苗木やろ、挿し木は深い根を張らんのや。それに対して実生は深く主根を伸ばす」と植物学も絡めて解説、亀山の茶畑には在来種が最適だったことは、喜平さんだけが知る歴史かもしれない。
 昭和27年発行の『近江伊香郡史』には「最近に於ける各町村の新規事業」の項があり、「機械製茶工場を建設し(中略)、製茶能力、一日製品45貫を産し、年間1000貫を産す」と記されている。

光流

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