「明智光秀」は多賀町出身!?

このエントリーをはてなブックマークに追加 地域: 多賀町 2019年8月2日更新

十兵衛屋敷跡から明智丸をのぞむ


 2020年のNHK大河ドラマは『麒麟がくる』。智将・明智光秀が主役で、従来とは異なる新しい解釈で、その謎めいた前半生に光があてられるという。光秀が築いた「坂本城」や一族の墓のある「西教寺」がゆかりの地として有名だが、新たに光秀公の出身地と名乗りを上げたのは犬上郡多賀町佐目。今年3月「佐目十兵衛会」が結成された。会長の見津新吉さんは「これを機に我が町の歴史や伝承を掘り起こし、多くの人に伝えたいと思い活動を始めました」という。十兵衛は光秀の通称である。光秀出生の伝説が残るのは恵那、河児、瑞浪、山県、大垣などだったが、佐目が名乗りをあげたことで出身地として認知されることになった。

 光秀の多賀説のポイントを尋ねてみた。

  • 出身について書かれている『淡海温故録』と佐目の口伝が一致している。
  • 光秀からミツの字をもらい「見津」と書き「けんつ」と名乗る一族が佐目に存続している。
  • 「十兵衛屋敷跡」の位置が見津家に口伝として伝わっている。
  • 十二相神社は、以前は十二相権現社といい、明智家発祥の美濃・土岐に分霊されている。
  • 佐目には3つの山城があり、戦国時代の重要なポイントだった。

『淡海温故録』の原文と現代語訳の両方を記した案内板

 その他、光秀自筆の「禁制」が多賀大社に現存するなど、歴史を深耕しながら「佐目十兵衛会」は佐目と光秀の関わりを追い続けている。「禁制」は本能寺の変の4日後に出されたもので、多賀門前で乱暴してはならないという内容だという。「佐目十兵衛会」のメンバーの一人が運営する「三銀蔵」というサイトに詳しく掲載されている。

 実は、2014年12月、本誌連載の「ふることふみ4・光秀伝承を残す城 明智丸」(古楽)で、多賀出身説に触れている。一部を再掲しておく。

 「多賀町佐目の十二相神社から高室山に続く登山道に入り、多くの登山客で開かれた登り坂の厳しい山道を三十分ほど登ると狭いながらも開けた場所に出る。ここが明智丸の入り口となる。(中略)このような山城に、一つの伝承が残っている。『近江輿地志略』には「明智十左衛門生國美濃を立退き土岐氏を背き、此地に莱り居住す」とあり、六角高頼の扶助を受けたことや、十左衛門の息子十兵衛光秀が織田信長に仕えたことが記されている。明智光秀が育った城であるとの記載なのだ」

十二相神社参道。鳥居奥左が十兵衛屋敷跡

 『淡海温故録』は貞享年間(1684〜1688)に成立し井伊家に献上された近江国の地誌だ。『近江輿地志略』は享保19年(1734)に完成したもので、同様に光秀の出身が記されている。
 「佐目十兵衛会」は十兵衛屋敷跡に看板と、『淡海温故録』の原文と現代語訳の両方を記した案内板を設置し、公園として整備を進めている。全てメンバーが出資しボランティアで活動しているという。今後は訪れた方々におもてなしができるようにと計画している。整備されたこの地に立ち、山の稜線を辿ることができるだけで、素晴らしいおもてなしだと思っているのだが……。「佐目光秀会」ではないところに心惹かれている。 

佐目十兵衛会

TEL: 090-5668-1866(会長 見津)

店舗等の情報は取材時のものですので、お訪ねになる前にご確認ください。

小太郎

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