湖東・湖北 ふることふみ 58
肥田城水攻め(後編)

このエントリーをはてなブックマークに追加 地域: 彦根市 2019年7月11日更新

江戸期の肥田の堤防

 高い堤防に囲まれて、水が容赦なく襲いやがて建物の中にいても床下の水に悩まされるようになり櫓などの高い所に人々が集まって外を見ながら怨嗟の声を上げる……。多くの方は水攻めに対しこのようなイメージを持っているのではないだろうか?
 関東で唯一であり日本最後の水攻めとなった忍城水攻めを描いた映画『のぼうの城』でも一気に水が迫る迫力ある映像が流されていた。現実的にこのような水攻めを行おうとすれば水圧に耐えられる堤防を築くだけで莫大な経費が掛かる。羽柴秀吉の備中高松城水攻めは俗に「安土城天主の2倍の金が掛かった」といわれている。長さを考えると肥田城を囲った堤防は高松城よりも長い。少し後の時期になるが織田信長が観音寺城を攻めたとき、六角義賢は日野に逃れ蒲生賢秀(氏郷の父)に庇護される理由として義賢が賢秀に借金をしていて、六角氏が滅びると回収できなくなるためだったといわれている。この逸話は六角氏に潤沢な財産がなかったことを示唆しているのだ。
 肥田城のような平地の小城は総力戦で攻めれば半日もかからずに落とせたはずであるが、時間と経費をかけてまで水攻めにする必要性は本当にあったのであろうか?
 地質を考えれば、関東は粘りがある土壌であり関西は砂を多く含んでいて水攻めは関東にこそ適している。しかし日本で6回行われた水攻めの内4回は西日本で行われている。特筆すべきは東日本での2回も含めてすべてが関西経済に影響した人物が行っていることである。つまり水攻めは経済的に余裕がなければ行えない戦術なのだ。その上で肥田城と忍城は失敗に終わり、有名な高松城も結果的には本能寺の変による和睦であったため水攻めの戦果とは言い難く、完全な勝率は五割でしかない。こう考えると水攻めは出費の割に成果が上がらない戦となってしまう。悪く言えばイベントとして行われるにすぎないのだ。
 これらを踏まえると、時間も資金も無い六角軍が水攻めを選択するとは考えられず、ともすればこの戦そのものが伝承であったのではないのかとも論じたい。しかし肥田城址周辺には実際に土塁が残っていて国鉄を敷くときにその土を使ったといわれており、物証が残る戦いであった。そうであるならば六角軍が水攻めにしなければならなかった理由が存在するはずである。
 平成21年、聖泉大学において『肥田城水攻め450年シンポジウム』が行われた際、この疑問に一つの投げかけがあった。「肥田城の土塁は元々城側が築いたものであり、守城策として水を引き入れたのではないか?」というものである。この説はその場で否定されることにはなるが、これに代わる合理的な説もまだ出てきてはいない。
 肥田城水攻めは、多くの謎に包まれながら私たちに近江戦国史の奥深さを伝えてくれているのである。

古楽

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