湖東・湖北 ふることふみ 57
肥田城水攻め(中編)

このエントリーをはてなブックマークに追加 地域: 彦根市 2019年6月14日更新

肥田城水攻め堤防址

 永禄2年(1559)4月3日から始まった肥田城水攻めの詳しい経緯を知る手掛かりはほとんど残されていない。数少ない情報から考察すると、堤防を築き宇曽川と愛知川の水を流し込んだ六角軍は城を囲んだまま安食に本陣を置く。そのまま戦いを仕掛けることはなくこう着状態となる。水を留めるということは大きな水圧が堤防にかかることになる。現代の堤防でも想定外の流水による決壊があるならば、土を固めるだけの時代では強度もたかが知れていると考えた方が良い。
 水を留めることで堤防にかかる水圧。そして水はだんだんと土の中に染み込んでゆき、堤防は気が付かない間に弱くなってゆく。そこに雨が降り水嵩が増せば弱くなった堤防は一気に決壊するのだ。
この現象が肥田城でも起こった。
 水攻め開始から2か月を迎えようとする直前、5月28日に城を囲んでいた堤防の一部が決壊する。こうなると水は外に流れ出し囲っていただけの六角軍の方に被害が出たのだった。
 こののち、六角軍は観音寺城に兵を引いたと言われている。常識的に考えると肥田城を水で囲って城兵を動けなくし最低限の兵力を残したうえで進軍を行ったとの流れになるが同時期に六角軍によって宇曽川以北の城が攻められたと確定される記録を探すのは難しい。
 また例え堤防が決壊したとしても1万5千の兵で攻めれば肥田城のような小城は一昼夜を待たずに落城するが、堤防決壊後に肥田城はそのまま高野瀬氏の城として残っている。また堤防が決壊した地域に「廿八」との地名を付け(小字として残っている)後々まで言い伝えられることになる。
 残された記録を読むだけならば、六角軍は総力を持って観音寺城を出兵し、小さな城を囲み碌な戦いも行わずに二か月で兵を戻した。永禄2年の軍事行動はそれだけになってしまう。
 ここで一点誤解を招かないようにするならば、私たちが考えている城攻めの終焉は、城に攻城軍がなだれ込み建物に火が放たれ城主一族や主だった家臣が城を枕に討死か自害する場面ではないだろうか?
 ドラマなどで描かれるこの場面は、実際にはほとんどない。攻め側に大きな影響を残す城主か最後まで開城に抵抗する城以外にはありえないとも言える。城主や重臣を務めるような武将は当時でも貴重な人材である。そのような人材が城攻めの度に失われては人材不足に陥ってしまう。城攻めは攻め手が大きな力を示して守り手を降伏させて終わるのがほとんどであった。万が一城攻めになったとしても城を囲い経済封鎖をおこなうこと、もしくは城の周囲の領民たちの家や田畑が荒らされることで領主に対する信頼を失墜させることで攻め手の勝利と宣言することができた。その意味では肥田城水攻めの段階で六角軍が勝利したのかもしれないが、六角義賢が満足する勝利ではなかったはずである。

 

古楽

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